正直に言って、メディアがどんなに間違った女性像をトレースしても、その間違いがどんなにひどいものであったとしても、私は何も傷つかない。それはその虚構を目にする人たちの、目前にいるはずの生身の女が、逞しく賢く、そのイメージを裏切ってくれるだろうという自信があるからだ。そもそも、バービーもタッチの南ちゃんも、現実の荒々しい女性とは全くかけ離れた女性像を表現しているのは事実だが、そういった意味では少女漫画に登場する男の子もまぁまぁひどいものだし、腐女子の方々が好む同人漫画の同性愛もかなりひどい。だからと言ってオトコが社会運動を起こし、りぼんや別冊マーガレットを発禁処分にするなんて、想像をしただけで恐怖である。
フェミニズムの日本における一般的なイメージは、そういう、つまらない現実からドラマチックに飛ぶことのできるフィクションに目くじらを立てて、いちいち政治的な文脈に引っ張り出そうとしてくる表現規制派の人たち、というくらいではないだろうか。そして私は、フェミニズムによって広げられた選択肢や獲得してきた権利があるからこそ、そうしたフィクションを余裕で楽しみ、怒りっぽいフェミニストたちを嘲笑するようなポーズができているということは、意識的に忘却している。女であることをものすごく楽しみ、パンツを履いた運動家を皮肉りながら、彼女たちと同等の、あるいはそれ以上の権利が欲しいと思っているし、当然手に入るものだと思っている。
フェミニズムの正しさを支持しつつ、女性を貶めるラップの歌詞にも魅力を感じる
ハイチ系アメリカ人女性であるロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』は、そういう、とてもワイズで現実的で、そしてとても卑怯な私たちと、少し似たところがある著者が、とても正直な視点でまとめたエッセイ集である。フェミニズムの学術的な歴史や理論的な葛藤にページを割くのではなく、スイート・ヴァレイ・ハイやハンガー・ゲームなど、ポップな固有名を交えながら、現代的で女性としての楽しみも多く欲望している自分のための、フェミニズムを更新しようとする。彼女はフェアで、素直で、そしてとても傷ついた人だと思う。日本にいる私に、耳が痛い示唆もあれば、黒人のインテリ女性である彼女にしか経験し得ない矛盾もある。
彼女は、自分も長くフェミニストと呼ばれることを拒み、フェミニストを誤解していたと繰り返す。そして、フェミニズムの正しさを支持しながらも、ものすごく女性を貶めるようなラップ音楽の歌詞や、ピンクのドレスに感じてしまうどうしようもない魅力の双方を否定しないために、完璧ではないけれどもフェミニズムを固く信じる「バッド・フェミニスト」を名乗る。