捨ててきたものの亡霊がものすごい勢いで押し寄せてきて
フェミニズムは私たちポスト・フェミニズム時代の女性を非常に高いところまで引き上げてくれた。私たちは皮肉屋で、ワガママで、権利は自明のものとして当然行使し、女であることの楽しみも捨てず、誰かに従順になることの心地よさも忘れず、何にでもなることができるようになった。フェミニストを名乗るまでもなく、あらゆる場所、あらゆる地位にアクセスできる私たちはしかし、何を捨て、何を選ぶかによって、受け入れなければならない強いコンプレックスと付き合っている。賢くありたいとも思うし、何より可愛くありたいとも思っているが、どちらかに少し舵をきった途端、捨ててきたものの亡霊がものすごい勢いで押し寄せてきて、自分が大きく間違っているのではないかという気分になる。それこそ、自分が人としてバッドであるかのような気分になるし、別の時には女としてバッドという気分になる。
フェミニズムが不味くなるとしたら、進歩的で努力家で、才能に溢れた女性が、旧来の女性像にコンプレックスを抱いた時である。「バッド・フェミニスト」はその瀬戸際にある女性が、ギリギリのところで踏ん張るためのメッセージのようにも聞こえた。そして、価値と価値の狭間で揺れる、別にフェミニストと名乗る必要はない私にとっては、一つのバランスの取り方、悩みの棚上げの仕方を教えてくれるものである。別にゲイの思想や生き方をなぞるつもりも必要もないが、少なくともセクシードレスのビヨンセがフェミニストの文字を背に女性を奮い立たせるように歌っているような米国に住む、高度な教育を受けた有色人種の女性ですら、似たような矛盾を孕んでいるということは、荒唐無稽で時にびっくりするほど前近代的な東京で生きるにあたって、大変残念なことでもあり、ものすごく心強いことでもある。