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SFの可能性を切り拓くテッド・チャン17年ぶりの作品

牧眞司が『息吹』(テッド・チャン 著)を読む

2020/02/12
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『息吹』(テッド・チャン 著/大森望 訳)

 あまたの才能がひしめく現代SFにおいて、テッド・チャンはまぎれもなく最前線でジャンルを牽引しつづけてきたひとりだ。デビューは一九九〇年だから、すでに三十年のキャリアを持つベテランである。にもかかわらず、これまで発表した作品は二十篇にも満たず、すべて短篇あるいは中篇で、長篇はない。それも宜なるかな。一作ごとのクオリティが驚くほど高い。本書は十七年ぶりに上梓された第二短篇集だ。

 巻頭を飾る「商人と錬金術師の門」は、二十年間隔の過去と未来を結ぶ〈歳月の門〉をめぐる時間SF。アラビアンナイトの風情がある枠物語の趣向で、バグダッドとカイロにあるふたつの〈門〉と、みっつの逸話が精妙にリンクしている。チャンは時間移行が引きおこす再帰的因果の結び目を描きながら、読者を思索の深みへと導く。時間を遡っても運命は変えられない。人間に可能なのは、自分が生きた/生きゆく意味を捉え直すことだけである。しかし、そこから得られた悔悛、償い、赦しだけでじゅうぶんなのだ。

 同形の哲学的テーマを、多世界解釈のアイデアを梃子に変奏した作品が「不安は自由のめまい」である。この作品では、プリズムという量子論的デバイスによって、世界が分岐し、その分岐した世界との通信ができる。作動したデバイスの数だけ分岐があり、それぞれ可能性が実現した世界がある。だとすれば、自由意志に意味はあるか? 私がいまおこなう決断に価値はあるか? チャンが見せるのは、怜悧にして切実なる思考実験である。

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「偽りのない事実、偽りのない気持ち」では、ヨーロッパ人がアフリカへ植民しはじめた時代の物語と、人生のすべての瞬間が自動的に記録される近未来の物語とが並行して進む。人間はありのままの真実を見ているのではなく、言語によって加工された体験や認識を真実と見なしている。自分と他人との真実が異なるなら、その間隙はどう乗りこえられるのか?

 SFのシチュエーションやガジェットは、なにかの隠喩や象徴ではなく、まず、それ自体としての実体性・整合性を備えている。ただし、実体や整合の些末や辻褄だけに耽れば、好事家向けのテクノロジカル・フィクションに堕してしまう。斬新なアイデアによって、世界のありよう、状況や社会の葛藤、人生の実相を照らしだすところに、SF本来の意義がある。テッド・チャンは、その可能性をつねに切り拓いてきた。

 以上に紹介した作品のほか、バーチャルな環境のなかで意識を持ち成長するAIと、その環境を維持すべく奔走する支持者たちの物語「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」、アルゴンの気圧差によって生命・知的活動が駆動する小宇宙を、その世界内の研究者の視点で解きあかしていく「息吹」など、全九篇。

Ted Chiang/1967年、ニューヨーク州生まれ。「バビロンの塔」でネビュラ賞、「息吹」等でヒューゴー賞を4回受賞。代表作「あなたの人生の物語」映画化(『メッセージ』)で一躍有名に。
 

まきしんじ/1959年、東京都生まれ。SF研究家・文芸評論家。著書『JUST IN SF』、共編著『サンリオSF文庫総解説』。

息吹

テッド・チャン,大森望(翻訳)

早川書房

2019年12月4日 発売

SFの可能性を切り拓くテッド・チャン17年ぶりの作品

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