覇権国の後退と資本主義の暴走、そして中国との対決――
昭和の日本が直面した危機は今また繰り返されるのか?
最高のメンバーが語り尽くす、白熱の歴史論議!
半藤 戦後七十年という節目を迎えて、あらためて昭和の歴史に注目が集まっています。しかも二十一世紀に入って、また歴史が大きく動くのではないか、という気配が色濃くなっている。世界史の流れの中で、日本がどのような道を選ぶか、という問いに直面しているのではないでしょうか。
出口 天皇陛下も今年の年頭のご感想で、先の戦争の戦禍に触れられ、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と言われていましたね。
半藤 そこで今日は、昭和史を、世界史の中に置くと何が見えてくるか、論じていきたいと思います。昭和のはじまりとなると、一九二六年十二月二十五日なのですが、世界史の大転換点ということでいえば、少し遡ってちょうど百年前の第一次世界大戦(一九一四~一九一八年)です。このあたりから始めましょうか。
水野 私も第一次大戦後から、日本の選択は裏目、裏目に出たと思います。カール・シュミットというドイツの政治哲学者は、世界史を「陸と海の戦い」として捉え、近代は海を制覇した国が、交易や情報を握った「海の時代」と位置付けています。たとえば日露戦争も「陸の国」ロシアに対し、「海の国」日本とイギリスの同盟が勝利した戦争といえるでしょう。
第一次大戦もまた、アメリカ、イギリスといった海の国が勝ち、ドイツを中心とした陸の国が敗れました。そこで日本だけが奇妙な選択をしたのです。日本は「海の国」の側で戦い、戦勝国の一員となったにもかかわらず、「陸の国」を志向した。中国に攻め込み、ドイツやソ連との連携をはかって、第二次大戦では陸の陣営で戦い、負けてしまう。
半藤 そもそも日本は第一次大戦というものをよく理解できなかったのではないでしょうか。要するに、第一次大戦はそれまでの戦争と質的にまったく変わってしまったわけです。それまでは、主戦場に投入される軍隊の能力と規模が勝敗を決していました。戦争とは軍隊同士がやるもので、一般の国民は直接被害を受けることもなかった。限定的な局地戦のイメージしかなかったのです。
ところが第一次大戦は、人類が初めて遭遇した「国家総力戦」でした。飛行機、タンク、機関銃などの近代兵器が登場し、軍事力のみならず、経済力、科学技術力をはじめ国力を総動員して、四年あまりにも及ぶ持久戦となったのです。死傷者数も桁違いに膨れ上がり、戦場となったヨーロッパは甚大な打撃を受けました。それによって、国家像や戦争観そのものが変わってしまったのです。
ところが、日本にとっての第一次大戦は、アジアで局地戦に参加したり、輸送船団の護衛などをやって、ドイツの南太平洋の委任統治領や青島をもらえた、という従来の帝国主義的戦争に過ぎなかった。死傷者も陸海合わせて五百人ほどでした。
船橋 たとえば国際連盟にしても、もう二度と総力戦は繰り返せない、という痛切な反省から生まれたものですね。さらに進んで、一九二八(昭和三)年のパリ不戦条約では、戦争の非合法化まで決めている。まさに戦争のルールが根本的に変わった。
半藤 それに対して、日本国内では、不戦条約の第一条に、戦争の放棄を「人民の名に於て厳粛に宣言する」とあるのをとがめて、人民とは何だ、大日本帝国憲法の天皇大権(開戦権、条約締結権)に反する、と大騒ぎをしたんですよ。議論の次元が違いすぎます。
出口 たしかに、総力戦というものがどういうものかを理解していたら、軍縮問題もあれほどの大騒ぎにはならなかったでしょうね。総力戦とは、国の全ての力を注ぎ込む戦いですから、最後はGDPが大きい方が勝つ。もし軍縮で一定の歯止めをかけなければ、圧倒的な国力を持つアメリカとは対抗することさえ難しい、とわかるはずです。
一九二一(大正十)年にワシントン軍縮会議で軍艦の保有制限が決められますが、日米のGDP比からいうと、対米六割というのはむしろ破格の扱いだった。
船橋 それが分かっていたのが、日本の首席全権だった加藤友三郎海相ですね。これ以上アメリカといっしょになって建艦競争をしていたら、日本は潰れてしまうが、アメリカは潰れない、と。
水野 軍縮条約を結ばずに、もとの構想どおり八八艦隊(戦艦、巡洋艦各八隻を中心とする艦隊)を作ったとしたら、作って維持するのに国家予算の三分の一が使われる計算だったそうです。
船橋 しかし、今も昔も、政治は予算のパイを小さくするのはきわめて難しい。とりわけ軍縮は軍令(作戦)と軍政(予算、人員)とが絡んでしまう、非常に怖い政策なんですね。