文春オンライン

今、起きていること対「イスラム国」戦争が戦後を終わらせる

日本は「テロとの戦争」に完全に巻き込まれた。それでも対米従属の追求は続いている

2015/03/05
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「決意と覚悟」の空虚さ

 さて、現政府の「責任感」は、一見したところ、かつての政府の姿勢に比して真っ当なものであるように感じられるかもしれない。しかし、その決意は例えば、次のような言葉によって表現されている。「日本は変わった。日本人にはこれから先、指一本触れさせない。その決意と覚悟でしっかりと事に当たる」(二月三日)。こうした勇ましく軽率な言葉をつい漏らしてしまうところが、安倍晋三氏の愛すべき点なのかもしれない。ここで不可思議なのは、「指一本触れさせない」ようにするためのいかなる具体的な手段も明示されていない、という点である。仮に今回の人質事件のような事象が発生した際に自衛隊を動員できる、より具体的には特殊部隊を編成して人質救出に出動できるよう法整備を進めたところで、現実問題としてそのような作戦が可能であるのか、きわめて疑わしい。こうした作戦の難度が高いことは言うまでもなく、米軍も現に失敗している。そして、そもそもこのような作戦を自衛隊が独自に立案・実行するためには、外国(特に中東)での諜報能力の大幅な拡充を含む、組織の抜本的拡張が要請されるはずである。

 この「決意と覚悟」の空虚さは、現政府の関係者の口にする「責任」の空虚さと、一体を成している。米英の「テロリストとは一切取引しない」というスタンスは、当然、事があれば世界のどこであろうと実力によって自国民を救出することを試みるという原則と表裏一体を成している。この方針は、その是非はさておき、論理的に一貫している。自国民の保護を実行するにあたって、テロリストにカネを払うという手段は用いない、という方針である。ところが、今回の日本政府は、「テロリストとは一切取引しない(カネは払わない、交渉すらしない)」という米英的な姿勢を貫きつつ(最終的な局面で取引の主体となったのはヨルダン政府である)、実力行使を決行する準備はなかった。このことは、つまり、現政府は「自国民の保護」ということに対して責任を感じていない、ということを意味する。

 誤解なきよう言っておきたいが、私は日本国家が米英の対テロ方針と同じものを採用するべきだ、と言いたいのではない。今後の方針の問題とは別に、今回の件において現実に、日本政府の振る舞いは、自国民の保護に対する責任を論理的に一貫した形で全うしていなかった、という事実が指摘されるべきなのである。「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」と口で言うのは易しい。しかし、果たしてこの責任を彼が具体的にどのような方法によって全うしようとしていたのか、私には全く理解できない。

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 もともと「テロリストとは一切取引しない」という方針に裏づけがないにもかかわらず、この方針が貫徹されたのは、アメリカを中心とする有志連合への同一化が突出した結果であったように見受けられる。何のことはない。要するに何時も通りのことが起きているにすぎない。すなわち、果てしない対米従属の追求である。そもそも、アメリカが発してきた「テロリストとは一切交渉するな」というメッセージに対しては、アメリカ国内からですら批判がある。アメリカもこの方針に背く行動を取ったことがある(タリバンと人質を交換)にもかかわらず、それを外国に強要している、という批判である。だが、アメリカ自身の首尾一貫性の疑わしさ以上に強調されるべきは、「交渉するな」と他国に対して要求するのであれば、アメリカは実力によってその他国の被拘束者を奪還する準備がある――それが優れた手段であるか否かは別として――と申し出なければならない、という道理である。それがないまま交渉を禁ずるという所作は、不当にも、他国から自国民保護の手段を奪うことに帰結する。しかし、こうした道理が顧みられることはなく、日本政府が身代金を払うと判断するか否かとは別問題としてあってしかるべきアメリカへの批判もないまま、「テロには屈しない」の掛け声のもと、日本政府は非交渉を実践した。これが、彼らの言う「責任」の内実である。日本国内でのテロ発生という最悪の事態の可能性が高まるなか、この言葉は空虚なまま浮遊している。そう、背に腹は代えられない。対米隷属レジームを維持する(腹)ためには、国民の実質的安全(背)などいくらでも差し出してよいものにすぎない。

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