周知のように、武装組織「イスラム国」による邦人拘束人質事件は、悲惨な結末を迎えた。イスラム国は、後藤健二氏の殺害動画とともに次のような声明を発表した。「日本政府へ。おまえたちは邪悪な有志国連合の愚かな参加国と同じように、われわれがアラー(神)の恵みによって権威と力を備え、おまえたちの血に飢えた軍隊を持つ『イスラム国』だということを理解していない。アベよ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺りくする。日本にとっての悪夢が始まるのだ」

 この在外邦人および日本国内への宣戦布告、テロ宣言にどれほどの実効性・実行力があるのか不透明ではあるが、これを以って、二〇〇一年九・一一以来の「テロとの戦争」に日本政府・国民が完全に巻き込まれたと見なすべきであることは、確かであろう。例えば、東京のターミナル駅の構内で、生きた人間が一瞬にしてバラバラの肉片に変えられてしまうという事態の発生可能性に、われわれは直面させられている。

いつ、誰と、どのような戦争をするのか

 私は昨年末の衆議院総選挙以降、次のように主張してきた。すなわち、問題は「日本が戦争をするかどうか」ではなく、戦争をするのは既定路線であり、「いつ、誰と、どのような戦争をするのか」が問題である、と。第二次安倍内閣成立以来の安全保障関連政策は、すべてが一点を目指していた。その一点とは、戦争準備である。この方針は、衆議院総選挙の結果により、国民の賛同を事実上取りつけた。そして、具体的戦争は、対テロ戦争への参画という形で現実化しつつある。

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 二人の犠牲者の発生とイスラム国側からの宣戦布告という状況が出現したことについて安倍政権の責任問題がいま提起されているが、「過失の責任を問う」型の議論は的を外している。今次の事態は、まさに安倍政権が望んで準備したものにほかならず、「心ならずも発生させてしまった」ものではない。ここに至った展開は、政治技術的な観点からすれば、大変見事である。彼らの目的には、戦争の実質的な実行とともに改憲があるが、参戦は改憲に向かう一連の過程の総仕上げの役割を担う。改憲勢力が改憲を議題に乗せる際に絶対に失敗は許されず、必勝の状況をつくり上げなければならない。その際、現にすでに戦争をしているという事実は、彼らを後押しする最大の要因として機能するはずだ。その事実があれば、改憲は単に現状を追認する作業にすぎなくなるからである。そして、いくら「戦争をしたい」といっても、もちろん隣国を挑発していきなり戦争を始めるわけにもいかないが、イスラム国が相手ならば、大義名分が最も立ちやすい。

 無論、対テロ戦争への日本の関与という文脈で言えば、今回そのリスクが全面化する前から危機は潜在していた。イラクに自衛隊を派遣し、アフガンで活動する米軍に給油支援を行なっていた。もっと大局的に見れば、イスラム武装勢力が絶対的に敵視する米軍の世界戦略は、日米安保体制に基づく日本の米軍への基地提供抜きには考えられない。ロンドンやマドリードが爆弾テロに襲われたのと同じく、東京が攻撃の対象とされても論理的に何ら不思議ではなかった。こうした状況は、二〇一三年一月に発生したアルジェリア人質事件で日本人が優先ターゲット化されたという事実において、かなりの程度表面化してきていた。そして、こうした文脈に決定打を打ち込んだのが、本年一月の安倍首相の中東歴訪であったと言えよう。訪問先のエジプト、イスラエル、ヨルダン等での発言が、イスラム国に対する過剰に挑発的な言辞であったか否か、という点に現在注目が集まっているが、中東での発言の細部に問題の核心はない。日本政府は二人が拘束されていることを昨年の段階で知りつつ身代金交渉を拒否してきた、つまり人質への危害からイスラム国との全面対決に至る可能性を把握していたのであるし、イスラム国側からすれば、すでに何カ月も前から拘束していた人質を表に出す最適なタイミングを、今回の首相中東訪問の時期に見出したということにすぎなかろう。

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