「本は大事にしなさい」と言われて育ったのに、『少年少女世界の名作文学』全五十巻の中に一冊だけ、私が柱に叩きつけた本があった。
第十巻アメリカ編、ストウ夫人原作の『アンクル=トムの小屋』である。
それまでに読んできた本とはあまりに違っていた。人間を牛馬のように売り買いし、笞(むち)で打ったり、殺すことさえも許されていた奴隷制度という理不尽に、私は打ちのめされ、味わったことのない激情が、体の中で渦巻くのを感じた。悔しさ、怒り、憤り……。憎しみとも悲しみともつかぬものがわきあがってきて、文字がかすんで見えなくなった。私は縁側から起き上がることができなかった。
「あら! こんな暗いところで、いつまで本読んでるの! 目が悪くなるでしょ!」
母の声で、あたりがもう暗くなっていることに気付いた。
「早く中に入りなさい」
私は本を抱えて二階の自分の部屋へ駆け上がるなり、その分厚い本を、柱に叩きつけた。それでも胸に渦巻くものをどうしようもなくて、開いたまま畳の上にぐしゃりと落ちた本を踏みにじり、「こんなの、やだ!」と叫んだ。
拾い上げると、本はページが折れ、少し破れていた。罰当たりなことをしたと思い、慌てて背表紙を撫でたが、抑えられない感情が涙になってボロボロこぼれた。
後に母から、『アンクル=トムの小屋』は、南北戦争のきっかけになったとさえ言われている本だと聞いた。
『少年少女世界の名作文学』はその後、ずっと押し入れにしまってあったが、三十代半ばになって、押し入れを整理することになり、近所の児童向けの施設に寄付した。
寄付が決まった時、久しぶりに手にとってパラパラとめくってみた。あちこちのページに、フランスパンの皮が挟まって、シミもある。クッペの皮とバターのシミだ。
『アンクル=トムの小屋』を見つけて、開いてみた。所々、ページが折れ、少し破れているのを見て、懐かしさと胸の疼きを覚えた。
柱に本を叩きつけたあの日、私は本当の読書というものに触れたのかもしれない。
けれど、大人になってからの私は、さほど本を読まなかった。人生の中で、濃密に読書したのは小学校の頃だけだ。
今も私は、あの頃読んだ物語の記憶をたよりに生きている気がする。