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『こいしいたべもの』(森下典子 著)

 それから長い月日が過ぎ、私は三十代になった。ある日、鹿児島出身の友だちが、

「実家でよく鳩サブレーを取り寄せる」

 と言うのを耳にして、

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「えっ、鳩サブレーを?」

 と、聞き返した。

「うん。大好きなの」

「わざわざ取り寄せるの?」

「だって、鹿児島には売ってないから」

 ハッとした。地元には、地元ゆえにわからないこともある。鎌倉の銘菓「鳩サブレー」は、日本中で売っているわけではなかったのだ。

 数年前、知り合いの家で、お茶をいただいた。

「お一ついかが?」

 と、差し出された菓子器の中に、懐かしい鳩の形があった。

「珍しくもないかしら?」

「いえ、懐かしい……」

©森下典子

 そういえば、もうずいぶん長いこと「鳩サブレー」を食べていない。

 手に取って、しみじみその形を眺めた。輪郭の曲線がふっくらとして、まるで子供の絵のような真似のできない幼さがある。小さく窪んだ点のような鳩の目も愛らしい。全体の黄金色も、ぽってりとした厚みも、昔と少しも変わっていない。

 ビニール袋の封を開けると、たちまち、ふわーっとバターの新鮮な香りがした。私は子供のころと同じように、鳩の尻尾を齧った。

 サクッ、サクサクサク。

 その時、不意に思い出した。「かっくまら」で、玉砂利を投げて鳩を追い散らした日、家に帰って口の中に入れてもらった、あの甘く、サクサクとした味は、これだった……。

 何となく、ビニール袋の裏に目を落とすと、原材料が書いてあった。

「小麦粉、砂糖、バター、鶏卵、膨張剤」

 それ以外は何も入っていない。素材そのものの正直な味がする。

 この何十年、贅沢なお菓子を食べてきた。ナッツや香辛料をふんだんに練り込んだ味も、口に入れた途端、モロッと崩れるリッチな感触も知っている。

 だけど、真面目で素朴であることは、なんとすてきなことだろう。味が澄んでいる。スタンダードである理由(わけ)はそこにある。

 あれから私は、横浜駅西口の「たかしやま」で、「鳩サブレー」の手提げ入りをちょくちょく買って食べている。

©森下典子

(4)に続く

こいしいたべもの (文春文庫 も 27-2)

森下 典子(著)

文藝春秋
2017年7月6日 発売

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