写真に儚さと強さが同居する理由
その瞬間が、自分にとっての写真の始まりだった。奥山由之はいまも明確にそう思っている。
写真に対する向き合い方、表現することについての考え方も、あのときにすべて決まったと感じている。
「いかなるときも自分の写真は、誰かに対して何かを伝えるためのものでありたい。そういう切実な思いが根幹になければ、撮る意味なんてない。あのときにそういう考えが形成されて、以来ブレたり見失ったりしたことはありません」
「写真新世紀」の受賞後、奥山は間を置かず、「Girl」と名付けられた受賞作のファイルを、意中の3人に見せに行った。ミュージシャン、ファッションデザイナー、編集者と職業はバラバラだが、奥山は「自分が物作りにおいて大きく影響を受けてきたこの3人は、どう見て、何を思うのか」を目にしたかったという。結果的に、各ジャンルで第一線にいる彼らにも奥山の「熱」はまっすぐ届き、その後ともに仕事をする関係となっていった。
受賞の翌年、「Girl」は写真集として刊行された。そのことを皮切りに作品集の刊行が相次ぎ、雑誌や広告、ファッション分野での仕事もどんどん増えていく。「Girl」を観た人がファンになり、作品発表や仕事のオファーをして、そこで生まれた写真によってまたファンが増えていき……。そうしたよき循環が続いて、最も注目を浴びる写真家がいまこうしてここにいる。
奥山由之のこんな「出だし」を知ると、いま『flowers』の展示で観られる作品の、儚さと強さが同居する不思議な魅力も、よく理解できようというものだ。
写真というのは、そのときカメラの前にある個別具体的なものしか撮ることができないけれど、そこに写し出されるイメージは、撮り手が何を求めるかによって印象がまったく変わってくる。
どうしても伝えたい何かにかたちを与え、それを、なんとしても伝わってほしい相手のもとへと届けたい。そのためにだけ写真を用いるのだ。そうかたく心に決めた奥山由之の表現がこれまでも、これからも最注目だというのは、至極当然のことだと思えてくる。