東京駅にほど近い三菱一号館美術館で、壮大なタイトルの展覧会が開かれている。ルネサンスの二大巨頭、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティの名を冠した、「レオナルド×ミケランジェロ展」。

撮影/著者

素描だけでも、じゅうぶん

 ただし《モナ・リザ》や《最後の晩餐》、《ダヴィデ像》に《最後の審判》など、彼らの代表作が会場にあるわけじゃない。当然といえば当然だ。《モナ・リザ》こそ1974年に一度来日しているものの、それらの名作は世界の宝であるから、おそらくは未来永劫、いまある場所を動くことなどあり得ない。

 ではどんな作品が観られるのか? 基本的にはレオナルドとミケランジェロによる素描である。素描、すなわちデッサン。制作の主に初期の過程で、構想を固めていったり部分的な練習をしたりする際に描かれるもの。たいていの場合、本人に発表の意思などないし、人の目に触れることもあまり想定していないだろう。

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 なんだ、作品として完成されたものじゃないのかと言われれば、まったくそのとおり。だけど、がっかりする必要なんてない。素描とはいえ、ことはレオナルドとミケランジェロに関わること。古今東西の人類史を見渡しても、芸術家としてツートップといっていいふたり、素描だけだろうと見どころはたっぷりあるに決まっている。

 彼らほどの巨匠になると、生前に関係したものは、どんな些細と思われても大切に保存され、受け継がれる。よって素描やメモの類はかなりの量が残されている。今展ではそれら膨大な素描のなかから、レオナルドとミケランジェロの資質や作風の違いが際立つようにセレクトを施し、よく整理された展示が実現した。

 妙な言い方になるが、ふたりの素描における代表作もある。レオナルドは《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》。ルーヴル美術館所蔵の《岩窟の聖母》は彼の代表作のひとつ。画面右側に優美な天使が座っている。その姿を描くために試みられたのが、この少女の素描だった。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》1483-85年頃 金属尖筆、鉛白によるハイライト/明るい黄褐色に地塗りした紙 トリノ王立図書館 ©Torino, Biblioteca Reale

 繊細な、けれど確信に満ちた線で描かれた頭部は優美で純粋さを感じさせ、ほんとうに天使のよう。こんなわずかな線だけで、生命感ある少女像が現れ出る。何かを描くとは、なんて不思議な営みかと改めて思う。

 レオナルドらしい特長も、画面からよく読み取れる。左利きだった彼は、陰影をつける線を左上から右下へと引く。まぶたと頬骨などの部分は鉛白で塗られ、光が当たるハイライトをかたちづくっている。たしかな技術によって、天使のような軽やかさと実在感が両立している。

描き方の違いが、個性の差を生む

 ミケランジェロのほうは、《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》がある。《レダと白鳥》は、現在では存在が確認されていない作品。ミケランジェロが描こうとしたのは女性の頭部だが、どうやら素描のためモデルに据えたのは男性だった。ミケランジェロの素描は、目の前のものを忠実に表すのが目的ではなく、写し取った像をもとに、みずからの脳内にある理想のフォルムを生み出すことに供されたのだった。

ミケランジェロ・ブオナローティ《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》1530年頃 赤チョーク/紙 カーサ・ブオナローティ ©Associazione Culturale Metamorfosi and Fondazione Casa Buonarroti

 技法的に見ればミケランジェロは、斜線を交差させるクロスハッチングという描き方と、用いた赤チョークの濃淡で立体感を表現した。

 なるほど並べてみると、ふたりの素描から受け取る印象には大きな隔たりがある。二分して言うならば、レオナルドの軽みとミケランジェロの重厚さ、静のレオナルドに動のミケランジェロといったことになるか。どちらも素描だけでじゅうぶん鑑賞に足るという、大前提の共通点はあるのだけれど。

 会場では素描のほかレオナルドの手稿や、ミケランジェロによる顔のない彫像(トルソ)《河神》も観られる。究極の天才の創造の源泉に、たっぷり触れることのできる展示だ。

ミケランジェロ・ブオナローティ 《背を向けた男性裸体像》1504-05年 ペンとインク、黒チョークのあたりづけ/紙 カーサ・ブオナローティ ©Associazione Culturale Metamorfosi and Fondazione Casa Buonarroti