聖書には名場面がたくさんあって、それぞれの場面を表した「これぞ!」という代表的な絵画作品も存在する。「最後の審判」ならミケランジェロで、「最後の晩餐」はレオナルド・ダ・ヴィンチのそれ、といった具合に。
では、人が天にも届く塔を築こうとして、神の怒りを買ってしまった「バベルの塔」の話は? 代表的イメージになっているのは、ブリューゲルの《バベルの塔》で異論なし。
バベルの塔を描いたブリューゲル作品は世に2点あって、そのうちの1点が日本にやって来た。ふだんはオランダのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にある名品が東京・上野で観られるまたとない機会。東京都美術館での「ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル『バベルの塔』展」だ。
16世紀ネーデルラントの市民たち
会場に入るとまずは、ブリューゲルと同時代の16世紀につくられた彫刻、そして絵画が並ぶ。地域としてはネーデルラント、現在でいうオランダとベルギー周辺で制作されたものだ。このころの絵画は宗教画が中心。識字率が高くない時代なので、神の教えをビジュアルでわかりやすく伝えるのが、絵画の大事な役割だった。技術的にはかなり洗練が進んでおり、細部をしっかり描き込んだものが多く、つい見入ってしまう。
同時に、ちらほらと一般人の肖像画も出てくる。ネーデルラントではいち早く市民社会が成立したので、裕福な一般人がみずからの姿を描かせる例が出てきたのだ。
奇怪さとユーモアが溢れるヒエロニムス・ボス
次いで出合えるのは、ヒエロニムス・ボスと、その作風を継いだ画家たちの作品群。ボスはブリューゲルよりも少し前の時代、15世紀から16世紀初期に生きた画家で、宗教画の題材を扱いながらも、やたら奇怪な生きものや凄惨な場面を描いたことで知られる。ただし、絵のどの部分をとってもユーモアと人間味を感じさせて、そこが時代を超え愛されるゆえんになっている。
今展では《放浪者(行商人)》と《聖クリストフォロス》の2点の油彩画が目を惹く。ボロを着た放浪者が何気なく振り向いた瞬間を捉えた絵は、まったく古びた感じがしない。街に出れば今にもこの人物とすれ違うんじゃないか、そう思わせる実在感がある。
《放浪者(行商人)》は、当時としてはかなり異質な作品といえる。聖書や神話や歴史物語に登場するのではない、ふつうの人物の何気ない姿を描くのは今でこそ当たり前だけれど、この時代には稀有なのだ。日常の暮らしを描くとは、かつて大胆かつ斬新なことであり、ボスは勇気を持って「生活」を描いた先駆者だった。勇気を体現したこの作品と相対するのは、美術史の転換点を目の当たりにしているということでもある。
圧倒的なスケールと緻密な細部が同居する《バベルの塔》
ボスを通り抜けると、とうとうブリューゲルにたどり着く。農民の姿を楽しげに描いた一連の作品でよく知られるが、ここで出品されている《バベルの塔》はちょっと趣が違う。もっと荘厳で、きりりとした印象を与える作品。とはいえ、実際のサイズはかなり小さくて、60センチ×75センチ弱しかない。
一瞬、拍子抜けしてしまうけれど、近づいてじっと見つめていると、人間業とは思えないほど細部まできちんと描かれているのに気づく。堂々たる塔の開口部や回廊をよく見ると、無数の人の姿が浮かんでくる。塔の建設のために、それぞれが役割を持って立ち働いているのだ。ただでさえ小さい画面の中に、ごくごく小さく描かれる人物像は、筆のほんのひと刷毛で表現されていたりする。わずかな筆跡だけで人物とわかるよう描いてしまう画力には驚嘆させられる。
塔内で働く人の姿をしばし追って、ふと視野を広げて塔の全体像を眺める。と、この塔がいかに巨大な建造物であるか体感できる。まだまだ建設中だけれど、すでに雲を貫いており、数百メートルの高さに達している。圧倒的なボリュームとスケール感を実現するこの技量、ブリューゲル独自のものだ。
聖書によれば塔の建設という行為自体が神の逆鱗に触れ、これが完成することは決してなかった。哀しくてむなしい運命にある塔。それでもこの絵を見るかぎり、働く人たちに悲壮感はなく、むしろ意欲的に、創意工夫を重ねながらひとつの目標に邁進する喜びすら感じているかのよう。
バベルの塔という聖書由来の題材をもとにしながら、人の営為の尊さまでをもブリューゲルは描き出そうとしたんじゃないか。思えば彼は、ヒエロニムス・ボスの後進の世代にあたる。当時のネーデルラントでは、宗教や歴史だけでなく、目の前にある暮らしに目を向け絵画に取り込む試みが進んでいたのだった。
ブリューゲルはこの作品によって、宗教的な題材のなかにふつうの人の営みを織り込んで、新しい表現をつくり上げている。