画面に描かれるのは女性ばかり。ドレスはピンクや白で、背景は黄や緑のパステルカラー調の色合いで埋め尽くされる。甘ったるくてちょっと少女趣味? けれど、なぜか抗えない魅力があって目を惹きつけられる。終生、そんな絵画を描き続けたのがマリー・ローランサン。彼女の作品を専門に扱う美術館が都心にお目見えした。ホテルニューオータニ・ガーデンコート内にある、その名も「マリー・ローランサン美術館」。開館記念として「回顧展 マリー・ローランサンが東京にお引っ越し」が開かれている。
アートの激動期を生き抜いた
展名に「お引っ越し」とあるのは、かつて同名の美術館が長野県茅野市の蓼科高原にあったから。2011年にいったん閉館したあと、このたび復活と相成った。
マリー・ローランサンは1883年にパリで生まれた。当時のパリといえば世界の芸術の中心地たる地位を占めていたし、印象派の面々の活動をはじめとして、アートが大きく転換していく時期だった。刺激的な環境に身を置いて育った彼女は、ピカソらが住み着いたモンマルトルの丘のアトリエ長屋「洗濯船」に出入りして、画家としてのキャリアをスタートさせた。
たくさんの恋をし、芸術談義を闘わせ、自身のスタイルを築くためにどしどし絵を描いた。第一次・第二次世界大戦に挟まれた戦間期には、モディリアニや藤田嗣治らによって生み出された芸術潮流「エコール・ド・パリ」の主要なアーティストのひとりと見なされるようになる。
戦後もすでに確立した作風を研ぎ澄ませ、優美で多幸感あふれる絵を描き続けた。こうして駆け足で生涯をたどると、いかにも若きころに得た恵まれた環境を生かし、その遺産で作家生活を送ってきたように見えるけれど、今展であらゆる時期の作品を通覧すると、決してそんなに単純な話ではなかったことに気づく。
彼女は時代ごとに、最先端の絵画的思想、潮流を摂取し自分のものとすることを、かなり意識してこなしてきた。そのうえで、流行に踊らされず、自身の資質を裏切らず保持するよう、いつも巧みに調整をしてきた。たとえば、珍しく男性を描いた《パブロ・ピカソ》という作品がある。かのピカソの肖像を、彼が当時探究していたキュビズムの手法を取り入れ描いたものだった。キュビズムはピカソやジョルジュ・ブラックが数年間を探究に費したのちに終息した方法論だった。マリー・ローランサンもその思想に共鳴し試作はしたが、エッセンスを体得したらすっと身を引いた。
マティスらが関わった、激しい色づかいが特長のフォービズムについても、マリーは共鳴して試すものの、エッセンスをつかんだらやはり距離を置いた。エコール・ド・パリの時代には、強烈な個性を持った画家たちが身近に顔をそろえていたものの、だれかほかのアーティストに引っ張られるようなことはなかった。
一念を貫いたからこそ歴史に残る
時代の「いいところ取り」をしつつ、かといって波に呑み込まれることなく、女性的なモチーフや優しい色合い、緩やかでトゲのない構図といったみずからの持ち味を貫き通した。それでこそ世紀を超えた現在も、根強い人気を誇るアーティストとして名を残す存在となったのだ。
こうしてひとつの展覧会で、画家としての芯の太さと作品の強度が手に取るようにわかるのは、作品をまとめて観られる個人専門館ならでは。同館は個人のコレクションを収蔵品のベースとしている。創る側、コレクションする側の双方から、一念を貫くことの大切さを教えられる思いだ。