いまから80年前のきょう、1937年7月26日、ドイツ出身の女性報道写真家ゲルダ・タローが、内戦下のスペイン・マドリード近郊の戦線でその前日に事故に遭い、この日早朝、収容先の野戦病院にて息を引き取った。8月1日に27歳の誕生日を迎える6日前のことだった。
ゲルダはフランス・パリを拠点としながら、1936年にスペイン内戦が勃発して以来、ハンガリー出身の3歳下の写真家ロバート・キャパとともに戦場を何度も取材していた。37年7月に入り、当時のスペインの共和国政府軍が、フランコ率いる反乱軍とマドリード近郊の町ブルネテで衝突する。ゲルダは7月6日にブルネテの戦闘を撮影、いったんはパリに戻り、14日のパリ祭をキャパと祝っている。だが、すぐにまたスペインへ向かうと、ブルネテとビラヌエバ・デ・ラ・カニャーダのあいだにある戦線に赴いた。25日には、反乱軍にブルネテを制圧され、撤退する共和国軍の大混乱に巻き込まれる。このとき、飛び乗った自動車が共和国軍の戦車に追突され、転落したゲルダはその戦車に轢かれてしまったのだ。
病院に搬送されたものの、もはや医者にも手のほどこしようのない状態だった。せめて少しでも痛みが和らぐようモルヒネが与えられる。一度、意識を取り戻した彼女は「私のカメラは大丈夫? まだ新品なのよ」と訊ねたという(イルメ・シャーバー『ゲルダ』高田ゆみ子訳、祥伝社)。
死後、ゲルダの存在は長らく忘れ去られ、せいぜいキャパの恋人として言及される程度であった。しかし近年の研究により、その写真家としての業績とともに、キャパの活動にも大きな影響を与えていたことがあきらかになる。そもそも「ロバート・キャパ」とは、アンドレ・フリードマン(キャパの本名)の写真を売り込むため、「アメリカ出身の有名な売れっ子写真家」という設定で二人でつくった架空の人物の名だった。以後、フリードマンはキャパと名乗るようになり、彼女も本名のゲルタ・ポホリレからゲルダ・タローと改名する。
なお、ゲルダ・タローの名は、画家の岡本太郎からとったとされる。じつはキャパは同時期にパリに住んでいた岡本とは面識があった。岡本は南仏のカンヌを訪れた際、その沖合の島で仲間たちとキャンプをしていたキャパと偶然再会し、ゲルダにも会ったという。このとき日本人の友人たちから岡本が「タロー、タロー」と呼ばれているのが、彼女の耳に残ったのだろう。その数年後、改名した彼女の死を、岡本はパリで知ることになる。このときの衝撃を彼は、「しばらく逢わなかったゲルタが、前線で、いつの間にか私の名をつけて危険をおかし、死んでいったのだ。……私はその夜、強烈な酒を飲みつづけて耐えた」と、のちに記している(岡本太郎『にらめっこ』番町書房)。