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 当時のドリフターズは地方巡業が多く、付き人となった志村は主に楽器運びやセッティングなど重労働に追われる一方、メンバーやスタッフがコントをつくりあげていく過程を見ながら笑いについて学んでいった。1年半後、お笑い以外にも人生経験を積もうと考え、一旦はドリフを離れてバーテンダーなどをしたが、また1年後に復帰する。その後、付き人同士で組んだコントユニット「マックボンボン」での活動を経て、1974年にはドリフから荒井注が抜けたのにともない、3ヵ月の「見習い」期間を経てメンバーとなった。すでにドリフはTBSテレビの『8時だョ!全員集合』で人気絶頂にあった。志村は地元・東村山の盆踊りの定番曲をアレンジした「東村山音頭」で1976年にブレイクすると、加藤茶と組んだコントユニット「ひげダンス」、童謡「七つの子」の替え歌「カラスの勝手でしょ」などで子供たちの人気をさらった。

TBS系「8時だョ!全員集合」の最終回 左からいかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、志村けん、榊原郁恵

笑いがまったくないシリアスドラマの“衝撃”

『全員集合』は、裏番組の『オレたちひょうきん族』の人気に押されて1985年に終了したものの、志村はこのあとも『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』などの冠番組を持ち、グループでやっていたのとはまた違ったコントのスタイルを追求し続ける。『だいじょうぶだぁ』では、志村演じる老人が亡き妻との思い出を振り返るなどといった設定で、まったく笑いの要素もセリフもないシリアスなドラマをたびたび演じた。一連の「シリアス無言劇」は視聴者に衝撃を与え、宮藤官九郎も《子どもの頃に、いつ笑いが来るのかと思いながらずっと見てたら、結局、来なくて(笑)》《来週から見るのやめようかなと思うくらい衝撃だったんですよ》と、前出の志村との対談で明かしている(※1)。コントと並んでそういうものも出してしまうところに、志村のコメディアンとしての奥深さがうかがえよう。

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 1990年代後半、ゴールデンタイムを中心にレギュラー番組が激減し、どこから出たのか「志村けん死亡説」までささやかれた。のちに本人が《あれ、何だったんだろう》と首をひねった騒ぎのなか、母親からも心配して「大丈夫かい」と電話があったが、「大丈夫かいって、いましゃべっているじゃないか」と返したとか(※5)。じつは50歳になったら舞台をやりたいとずっと思っており、このころにはひそかに準備に着手していたはずだ。結局、仕事の関係で5年ほど遅れるも、2006年には一座を旗揚げし、舞台『志村魂(しむらこん)』を始める。最初の公演を前に、《僕の出発点、ドリフの『全員集合』はテレビ番組だけどホール収録でしたからね。舞台は、観客の反応が直に感じられるから大好き。笑いのタイミングがはまったときは何より気持ちいい》と語った(※6)。『志村魂』は以後、毎年、全国各地をまわって上演されている。そこではバカ殿やマッサージ師のひとみばあさんなどおなじみのキャラも登場する。

マッサージ師のひとみばあさん ©文藝春秋