もっと素直に「ただ見る」ことができたらいいのに……。
アートに触れるときに、そう思うことはしばしばある。あれは肖像画だしこれは風景画で、ロココやバロックといった時代区分は何か、印象派かキュビズムか、いったいどんな潮流の上にあるのか。そうした言葉で語るのは、それ自体は楽しいけれど、その前に、虚心坦懐に見る体験ができたほうがいい。
画面にただ惹きつけられ、そこに歓びや愉しさを見出せたら何より。そんな願いを満たしてくれる展示が開かれている。東京・六本木、シュウゴアーツでの近藤亜樹「飛べ、こぶた」展。
内に秘めたマグマを手づかみでつかみ取ってきたような絵画
1987年生まれである近藤亜樹は、画家としてのキャリアはさほど長くない。けれどそれは、公の場で作品を発表し始めてから数年しか経っていないというだけのこと。描くことや想像することは幼いころから大好きで続けてきた。そこからカウントすれば、すでに長い創造的探求の歴史があるともいえる。
彼女が絵筆を通して表現する作品はいつも、何を描いているのかあまり明確にはわからない。目の前にあるものを、そのまま正確に写し取るたぐいの絵ではない。それでも、はっと目を惹く色彩、激しく歪んだ形態からは、得体の知れないエネルギーが感じ取れて、それだけで圧倒されてしまう。眺めているうち、画面のなかにあるものが何かなんてことは、どうでもよくなっていく。
おそらく作者の目は、ありのままの外界に向いているわけじゃない。きっと彼女は自身の内面に深く潜って、ずっと奥のほうにあるマグマみたいなものをつかみ取ってきて、それを燃えたぎった状態のまま画面に叩きつけているんじゃないか。そうした描く側の熱量に感化されて、観る側の感情が強烈に揺さぶられるのだ。
今展を前に、近藤亜樹がみずから発表した文章には、こう書かれていた。
筆を握り絵を描くとき、感情のバロメーターがぐっと振り切れる。
身体の中の血が騒ぎ、ほとばしるような鮮烈な体験をキャンバスに刻まずにはいられなくなる。
本人が書く通り、作者が血をたぎらせて描かれたのであろうことは、作品を前にすれば、よくよく伝わってくる。
「これがわたしにとっての正しいかたち」
これらの絵を描く人が、突き動かされている巨大な衝動ははたしてどんなもので、いったい何を描いているのか。個展会場で、近藤亜樹本人に聞く機会を得た。
「たしかにわたしが描いているのは、目の前にある具体的なものじゃない。外の世界をそのまま模写するなら、写真のほうがいいんじゃないかと思います。
わたしの絵に出てくるものは変わったかたちをしているかもしれませんが、これがわたしにとっての正しいかたちだということ。写真に写るものよりも、自分の脳と身体に響いて伝わってきたもののほうが、わたしにとってはいちばんリアルです」
では、この絵には何を描いたのか、といった問いには答えづらい?
「そうですね、はっきりと名指すのはむずかしい。もっと、根っこのほうにあるものをいつも描いているので。植物の種が発芽して成長すると、茎や葉や花ができますよね。わたしは、そうやって咲いた花なんかを描いているのではなくて、種を描くのでもない。その植物が植えてある場所の土を描いているような感じです。花が咲いて葉が茂るのは、そもそも土の養分があるから。すべての素になる土の部分を描きたい」
自身の内面から、ものごとの「根っこ」を見つけ出して描く。だから一枚ずつに凝縮したエネルギーのようなものを感じるのだ。そういう描き方をしているにもかかわらず、多作であるのは不思議。次々と作品が生まれてくるのはなぜ?
「たぶん描くことを、ごく当たり前にしているからでしょうね。仕事としてやっているというより、描いて外に出さないと、エネルギーが自分に溜まって、毒みたいなものに変わってしまいそうな気がします。
そう、描くことは呼吸に似ているかもしれません。いくら頭のなかだけであれこれ考えても、言葉で取り繕っても、不自然になるだけ。それでは絵が描けない。わたしにとって描くというのは、もっとずっと自然なことなんです」
近藤亜樹の内面に包まれてしまうという不思議な体験を、ぜひ会場で味わってみたい。