「文藝春秋」3月号の特選記事を公開します。(初公開 2020年2月18日)
その心情は、簡単にはつかめない。
〈2018年6月6日、私は娘を死なせたということで逮捕された。いや「死なせた」のではなく「殺した」と言われても当然の結果で、「逮捕された」のではなく「逮捕していただいた」と言った方が正確なのかもしれない〉
2年前、東京・目黒のアパートで無残な死を迎えた船戸結愛(当時5歳)の母、優里は事件発生の3か月後、香川県の実家で逮捕された。捕まったことに安堵する、という独特の気持ちを優里は、こう表現した。
2月7日に優里が出版した手記『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』の一節である。裁判終結前の被告が自らの胸中を明かした手記を出版するのは異例である。
体中に170か所の傷痕やアザがあった
結愛は、わずかな食事しか与えられなかった栄養不足と暴行で免疫力が低下し、肺炎を患い敗血症を引き起こして亡くなった。最後に計測した死の1か月余り前と比べ体重の4分の1が失われており、体中に新旧170か所の傷痕やアザがあった。
直接の原因は養父、雄大の暴力と食事制限による虐待にある。東京地裁は昨年10月、保護責任者遺棄致死、傷害、大麻取締法違反の罪で懲役13年の刑を下し、確定している。
もちろん、これを見逃し続けた優里の不作為の責任も非難されていたしかたない。地裁は「雄大から心理的DVを受け、雄大からの心理的影響を強く受けていた」と認定はしたが、「強固に支配されていたとまでは言えない」として、責任を大幅には減じることはせず、懲役8年の実刑。優里は控訴している。
「異常なほど愛していた」娘をなぜ助けられなかったのか?
一審の裁判を振り返ると、優里の記憶の中には、何かでブロックされたように空白の部分が存在し、問答にはかみあわないやりとりも目立った。
このため「異常なほど愛していた」という娘が同じアパートでボロボロになって死に向かっていくのに、この若い母親はどうして防ぐことができなかったのか――その真相は解明されたとは言いがたい。
手記は、逮捕後に書かれた優里の日記が元になった。自殺願望に時折襲われる複雑な内面をありのままに書き残したノートが2冊。「DVや児童虐待で傷つき、亡くなる犠牲者を1人でも少なくするために」という弁護士からの勧めもあり、手記として編まれた。
この手記と、これまでの裁判や取材を通じて知りえた事実を突き合わせながら読むと、児童相談所や病院と関わりを持ちながら、なぜSOSを発することができなかったのか――その生々しいプロセスが浮かび上がる。