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「恩返しのためにもコーチに呼ぼうと思ってるんや」野村監督があの日、車中で明かした“池山隆寛への思い”

「恩返しのためにもコーチに呼ぼうと思ってるんや」野村監督があの日、車中で明かした“池山隆寛への思い”

「俺がここまで来られたのは古田、広澤、池山の三人のおかげだ」

2020/03/22
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 数々の名言をたくさん残した野村克也だが、時にその言葉と行動が矛盾することがある。ヤクルト、阪神、楽天で監督をしていた時はグラウンドを見渡すたびに、「○○は評論家になっても挨拶をしないな」と不満を言っていた。だが文句を言っていた割には、評論家時代の野村は挨拶どころか、試合前にグラウンドに降りたことは皆無に等しい。だから現場の監督やコーチは「ノムさんはよく言うよな」と呆れていた。

「感謝の気持ちが大切」も、私がサンケイスポーツで野村担当をしていた2003年から05までの3年間で頻繁に聞いたが、ボヤキはあっても野村自身が「○○さんに感謝した」というセリフはあまり聞かなかった。

1993年の日本シリーズ。日本一を決め、胴上げされる野村克也監督

けっして面倒見がいい「親分」ではなかったが……

 大物OBや選手を「○○は人望がないからな」ともよく批判していた。しかしヤクルト、阪神、楽天で監督を務めた野村が、根本陸夫、星野仙一、古葉竹識、原辰徳のように自分を慕う後輩を「軍団」として新チームにつれていくことはなく、コーチに呼んだのはヤクルトの高畠導宏、阪神の柏原純一(いずれも南海での後輩で、打撃コーチ)の二人くらいだ。

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 もっとも呼ばなかったのは理由があって、野村は「俺は星野みたいにマスコミや他球団への人脈がないから、クビになったらそいつも失業や」と言っていた。そしてもう一つは野村自身の影響力の大きさ(=敵の多さ?)。南海監督を解任された時、江夏豊、柏原といった「野村一家」と呼ばれた選手たちがトレードになった苦い思い出がある。

 けっして後輩や教え子の面倒見がいい「親分」ではなかった野村だが、楽天時代には一軍コーチにヤクルト時代の主力を呼んだ。それが池山隆寛である。

池山隆寛氏 ©文藝春秋

千葉マリンスタジアムまでの道中で

 あれは来季からの楽天監督の就任が決まった05年の日本シリーズ中だった。野村担当だった私は、サンスポで連載していた「ノムラの考え」執筆のため、都内の自宅から千葉マリンスタジアムまで送迎ハイヤーに同乗した。首都高速に乗ってしばらくして、野村からふとこう訊かれた。

「おい、池山ってなにしてるんや」

 02年に現役を退いた池山は、引退式ではファンに「(指導者として)ヤクルトに帰ってきます」と約束していた。サンスポやフジテレビで評論家をしていたが、ヤクルトは同じ歳の古田敦也が監督になっていて、池山に声がかかる環境ではなかった。

「どうして急にそんなことを言うんですか」