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野球がある「当たり前」を失って〜人妻キャンプだより 2020喪失

文春野球コラム オープン戦2020

2020/03/19

 お客さんのいないスタジアムは、色を塗る前の塗り絵みたいだ。いつもと同じようにピッチャーは投げ、バッターは打つ。走る、滑りこむ。いつもと同じはずなのに、はっきりとした輪郭だけを残して通り過ぎてしまう。なぜだろう。洗い物をしながらテレビに映る無観客試合を観ていたら、いつの間にか試合は終わっていた。

「こんなに選手の声が聞こえるのもなかなかないだろ」一方の夫はいつもより興味深げに観ている。「やっぱり、物足りないわ」私が言うと「昔のハマスタなんて、これと大して変わんなかったよ」としたり顔で言った。それとこれはたぶん全然違うと思う……でもその言葉は飲み込んだ。その違いを上手に説明する自信がなかったから。

私の人生に初めて色を塗ったベイスターズと、倉本

 それまで全く知らなかったプロ野球を見るようになって、3年。倉本を好きになり、初めてハマスタに行き、誰かを応援する楽しさを知った。応援しているチームが勝つ喜びと、負ける辛さと、シーズンが始まるワクワクと、終わる寂しさを知った。それは、輪郭だけだった私の人生に初めて色を塗った。ベイスターズと、倉本寿彦が。

 3回目の沖縄キャンプへ向かったのは、2月の半ば。レンタカーの予約も運転も、だいぶ慣れた自分がちょっと誇らしい。今日は宜野湾で、明日は嘉手納、午後は那覇でオープン戦がある。予定を考えるだけでウキウキしてしまう。窓を全開にして、『波乗りジョニー』をかけた。幸せだなぁと思った。こうしてまた春がきて、野球が観られる。

 去年工事中だった宜野湾スタジアムは見違えるように立派になっていた。球団オリジナルのアロハシャツを身にまとった若い女性が、移動する選手をじっと見つめている。「●●くん、しっかりね!」と親しげに声をかける老夫婦がいる。広い芝生を駆け回る子どもをお父さんが汗だくで追いかけてる。そんな光景がただ楽しくて、海からの風が気持ちよくて、野球が始まるのが嬉しくて、ただ目的もなくうろうろした。

ベイスターズ一軍のキャンプ地、アトムホームスタジアム宜野湾

「チリン、チリチリチリン」けたたましいベルに振り返る。大きな大きな体を縮こませながら自転車にまたがる外国人選手が、子どものようにはしゃぎながら一心不乱に自転車のベルを鳴らしていた。見送る背中には「AUSTIN」の文字が。あ、新外国人選手の人! 「(外国の自転車にはチリンチリンがないのかしら……)」異国の文化を無邪気に楽しむその背中を、私は頼もしく眺めていた。

クレープ屋さんにあった伊藤裕季也選手のバット

「ああ、それはね、伊藤裕季也選手のバットだよ」公園内にあるクレープ屋さんに飾られていたバットをじっと観ていたら、店主の男性が教えてくれた。

「本人がプレゼントしてくれたんだ。いつも来てくれるの。だからなのか、あんなに厳しい練習毎日してるのに『太っちゃいました』って」クレープを焼きながら店主は笑う。「もうすぐバレンタインでしょ? 伊藤選手に『何個くらいもらうのよ?』って聞いたら、しばらく考えて『……2個くらいもらえれば』ってね(笑)」

 

 あんなにイケメンで人気もあるのに、なんて謙虚なんだろう。こんな感じで店主はお客さんみんなと楽しくおしゃべりをして、それに従いどんどん行列は長くなるけど、でもそんなの関係ないなと思った。選手も、ファンも、地元の人も、「野球」という幸福をみんなで大事に味わっている。その時は、思いもしなかった。その幸せは、絶対でも永遠でもないこと。何かの拍子に、突然脆く破けてしまうこと。甘い幸せをたっぷり包み込んだ、薄くて柔らかなクレープのように。