3月に入って以来、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、政府の要請を受けて全国の大半の学校が休校している。このため、本来なら行なわれるはずだった卒業式がとりやめとなったり、実施した学校でもたいていは出席者を制限し、時間も短縮するなど変則的な形で行なわれた。卒業式では定番の「蛍の光」も時間短縮、また飛沫感染を避けるため斉唱をとりやめた学校が少なくなかったようだ。
「蛍の光」は明治時代に卒業の歌として生まれて以来、大正・昭和・平成と歌い継がれてきた。それが令和改元後、初めての卒業シーズンを迎えた今春はこのような事態となり、あまり歌われなかった。ひょっとすると、この百数十年のあいだでも、太平洋戦争中に次いで、「蛍の光」がもっとも歌われなかった春だったのかもしれない。
なぜスコットランド民謡が日本で“別れの曲”になった?
「蛍の光」の原曲は、スコットランド民謡「オールド・ラング・サイン(Auld lang syne)」である。しかし、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(1759~96)による原曲の歌詞には別れの意味はない。「懐かしく思い起こされる昔」という意味の題名どおり、懐かしい昔を偲んで、旧友どうしで酒を酌み交わそうという歌なのだ。イギリスやアメリカでは大晦日のカウントダウンのときに歌う曲として特別視されている。
それが日本ではどうして別れの曲となったのかといえば、当初より卒業の際に歌うものとして採用され、日本語の歌詞もこの目的に沿ってつけられたからだ。日本における学校音楽教育の創始者である伊澤修二(1851~1917)は、1883年に行なった演説の
伊澤は1879年、文部省所属の音楽教育機関として設立された音楽取調掛(現・東京藝術大学音楽学部)の掛長に就任すると、さっそく日本初の音楽教科書『小学唱歌集 初編』(1881~82年)の編纂にあたった。「蛍の光」はこの教科書に収録された唱歌のひとつで(当初の表題は「蛍」)、作詞を稲垣千頴(ちかい/1847~1913)という国文学者が手がけた。稲垣はこのころ東京師範学校(現・筑波大学)で和文・国史の教諭を務める一方、同校の校長でもあった伊澤に請われて音楽取調掛の一員となり、『小学唱歌集 初編』所収のいくつかの曲に歌詞をつけている(※2)。「蛍の光」の1番の歌詞「いつしか年も すぎの戸を」の「すぎ」は、「過ぎ」と「杉」の掛詞になっているのが、歌人でもあった稲垣ならではといえる。