「蛍の光」は世に出てまもない1882年2月、東京師範学校附属小学校の卒業式で歌われて以降、学校の儀式歌として徐々に広まっていった。1882年7月に行なわれた東京女子師範学校の卒業式に臨席したアメリカ人動物学者のエドワード・モースは、式で歌われた「我々(西洋由来)の唱歌」の一つとして「オールド・ラング・サイン」があったと記録している(※3)。
ただ、この時代はまだ卒業式という行事自体が、一部の学校のみで行われていたにすぎず、未発達の状態だった。そもそも当時、大学や師範学校などに通う学生の卒業式は、西洋にならって7月に行なわれていた(※1)。
全国の学校で歌われるようになった“きっかけ”
同時期の小学校では1年がたいてい前期・後期に分けられ、児童は学期末ごとに厳しい試験を受け、合格した者のみが進級・卒業できるという課程主義がとられていた。このため卒業証書も、全課程修了時ではなく、3カ月から半年間の一課程修了ごとに授与されることが多かった(※2)。現在のように、同一学齢の児童が1年を通して同じ学級で学ぶという年限主義システムへと移行したのは、もう少しあとの1885年のことである。これにより卒業式は必然的に年1回のみとなった。1892年には、学年のスタートが従来の9月から現行の4月へと変更、卒業式も3月の行事として定着していく(※1)。
この間、1884年には東京師範学校の小学師範科第3級前学期の唱歌の定時試業問題として「蛍の光」独唱が課せられるなど、師範学校・女子師範学校、また音楽取調掛ではこの曲を歌唱できる学生が次々と生み出された。学生たちは卒業後は全国の学校に教師として赴任、目新しい卒業式という行事とともにこの歌を普及させていった(※2)。
じつは「4番」まであった「蛍の光」――その内容とは?
ところで、「蛍の光」で現在歌われているのは2番までだが、当初は4番まであった。