屋根も真っ白に見えるのは、「屋根目地漆喰」という技法のおかげです。天守の屋根は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせる本瓦葺き。屋根目地漆喰とは、この瓦の継ぎ目や隙間に漆喰をかまぼこのように盛り上げて塗る工法です。
これにより、見る角度によっては漆喰部分だけが立体的に浮かび上がり、壁だけでなく屋根までも真っ白に見えます。黒い瓦がむき出しのままになっているほかの天守よりも、白漆喰の占める面積がはるかに大きくなるのです。美しいだけでなく、風雨への耐久性が増すという利点もあります。
「美観」と「実用」を兼ね備えた天守
姫路城の大天守は理想的な逓減率(初層から上層にかけて減少する割合)を保つために、建築上の歪みが生じています。すごいのは、美観を優先したためにできた空間上の欠陥を、実用面で補っていること。たとえば3階の南北と4階の四方は手が届かないほど高いところに窓が設置されるため、階段を設けて「石打棚」という射撃場としています。破風の内側にできる空間は「破風の間」と呼ばれる攻撃・監視の施設として活用。このほかにも、随所に抜かりない工夫が見られます。
姫路城は、関ヶ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年から、播磨一国52万石を拝領した池田輝政によって築城が開始されました。輝政は、徳川家康の娘婿です。“天下分け目の関ヶ原”を制した家康でしたが、政治的な実権は握ったものの、大坂城(大阪府大阪市)には豊臣秀頼が健在。そこで、豊臣家との決戦を見据えた家康が構築したと考えられているのが、城による包囲網です。
大坂に通じる主要街道上の城を改修または新築、もしくは城主を徳川方に引き入れました。「大坂包囲網」と呼ばれるこの包囲網は、西国の大名を牽制し、大坂への結集や大坂からの進軍を封じ込めるのが目的だったとみられます。
姫路城も、大坂包囲網のひとつだったと考えられています。姫路は中国地方と大坂の中間に位置し、山陽道が通ります。西国の大名が大坂へ結集して江戸に攻め上がろうとしたなら、鉄壁となり食い止めるのが役割だったのでしょう。家康は重要なこの地を、信頼できる娘婿の輝政にまかせたというわけです。