軍事施設ならば実用性さえあれば見映えなどどうでもよく、豪華な天守を築く必要などなさそうです。しかし、権力や財力を視覚的に見せつけるのもこの時期の城の重要な一面でした。威圧感のある外観で相手を怖じ気づかせ、戦わずして屈服させるのが理想的。城とは、政治的なツールでもあったのです。とりわけ天守は、財力と権力の象徴。大坂城の天守を凌駕する巨大な姫路城の天守は、豊臣方の大名だけでなく、領民に対しても徳川の新時代を誇示する絶好のシンボルタワーとなったに違いありません。
敵を翻弄する通路、緩急つけられた設計にも注目
戦いを想定した軍事施設らしく、城内の通路は複雑に折れ曲がり、あの手この手で敵を翻弄する設計です。たとえば「は」の門を抜け、道なりに進むと正面に大天守が見え気持ちが高まるのですが、180度Uターンさせられ、大天守に背を向けたまま暗いトンネルのような「に」の門への突入を余儀なくされます。左側の石垣がせり出し、通路の目隠しになっている点にも注目です。
目的地に近づいたと思った矢先に遠ざけられるのは、気持ちが萎えるもの。また、進行方向がわからなければ不安な気持ちになるものです。道幅が広くなったり狭くなったり、空間が明るくなったり暗くなったりと緩急をつけつつ、敵兵の不安と緊張をあおります。右側にある、緩やかにカーブする土塀もくせものです。塀に沿って進んでしまいがちな人間の性質を利用して、敵を行き止まりの空間へと誘導しています。待っているのは、頭上の櫓から放たれる矢と鉄砲の雨。塀さえも活用してしまう、心理戦も繰り広げられています。
一方、がらりと雰囲気が変わるのが西の丸です。後に城主となった本多忠政により、本多忠刻に輿入れした徳川秀忠の娘、千姫の化粧料で増築されました。戦闘を強く意識した本丸周辺に比べ、居住空間である西の丸は雰囲気やつくり、見える景色も異なります。化粧櫓から「カ」の渡櫓まで続く櫓群のうち、「ヨ」の渡櫓の北棟までは、侍女たちの住まった長局。身分の違いによる部屋の広さや明るさ、構造の差が感じられます。
撮影=萩原さちこ
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姫路城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」4月号の連載「一城一食」に掲載しています。
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