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発掘!文春アーカイブス

2017/08/13

source : 文藝春秋 1962年11月号

genre : エンタメ, スポーツ, 国際

5月17日(木)=第6日

 朝5時半、コンパスを見ると、ポートに(左に)まわっている。こりゃ、いかん。さっそく、テイラー(舵柄)をくくりなおす。マグロ船が横に近づいてきて、いろいろ話してから、去っていった。〉

 こっちがチョロチョロしているもので、気になったにちがいない。よってきて、

「どこまでいくんだ?」と声をかける。

「八丈島や」

「どこからきた?」

「大阪」

 尋ねられるばかりではつまらない。こんどは、ぼくのほうから、

「カツオ船か?」

「いや、マグロだよ」

「船籍はどこ?」

「和歌山だ」

 おたがいに、相手のサイドを足先で突っぱりながらの対話だ。むろん、あてないためである。

「そんなヨットで、八丈までいけるのかい? あぶねえな。ちょっと風が吹いたら、ひっくりかえるぜ」

 実は、八丈どころではない。おかしくなる。

「八丈から、どこへまわる?」

「横浜へいく」

 別れしなに、写真をとってやった。

「できたら送ってくれ」

「ヨッシャ」送るのは、だいぶ後になるだろう。

これが網膜に映った最後の陸地になる

5月21日(月)=第10日

 午前6時、雨があがる。風も微風を送ってくれる。逃がさぬよう、直接、手でティラーをとる。

 午後になってから、4隻の汽船に会う。バウを伊豆のほうにむけて走った。

 9時ごろ、御蔵島と八丈島のあいだをぬけたようすだ。保安庁の報告だと、ことしの黒潮は、二つの島のあいだを、北東に流れてるそうだ。しかし、太陽も落ちているので、セーフティ・ファースト(安全第一)をねらい、その南のリーフ(暗礁)のないところを通った。

 小生にとって難関とおもわれた伊豆七島も、これで突破だ。

 右手前方に月がいる。天上には北斗七星。ポラリス(北極星)はま横に光る。追手(背後)に順風を受け、ツイン・ステースル(2枚の前帆)をいっぱいにしめこむ。右手にティラーを持ち、左手でチーズをかじる。ラジオから、ハワイヤンとモダン・ジャズが流れる。

 ひとつの勝利を手にしたような、満足感をおぼえた。〉

 八丈は見えなかった。御蔵も見えぬ。この辺には灯台がない。目にしたのは、御蔵の南西にある荒岩だけだった。これが網膜に映った最後の陸地になる。

 島のあいだを通過しながら、針路の正しかったことに、気をよくした。位置がつかめると、グンと自信がつく。闇のなかで、ゴロゴロとあるはずの暗礁を、うまくぬけた。爽快な勝利感だ。

 本土から八丈までセールしてきたヨットは、いままでに1隻しかない。が、それは4人でだ。シングル・ハンド(正確には、シングル・ハンデッド。単独行)では、ぼくがはじめてである。

 ちょっと、鼻が高くなりかける。しかし、「マーメイド」の目的は、太平洋横断じゃないか。まだまだ、スタート・ラインにもついていない。こんなところで、気をゆるめては大ごとだ。気持をひきしめる。

 デイト・ライン(日付変更線)を出発点と考えることにした。まだ、まだ遠い。 船に会うたんびに、いちいちバウを北にむけて見せる。ジェスチャーである。いきたいほうに走っていて、怪しまれては困る。敵が遠くなると、もとにもどす。またやってくる。ふたたび、ポーカー・フェースをつくる。めんどくさいこと。しかも、この辺は北寄りの黒潮が流れている。おかげで、だいぶ北によってしまう。バカを見た。たぶん、10カイリの赤字とおもわれる。