外へ出かけることなくアートに触れる方法として、本に頼るのはひとつの手だ。

「ものを見るってこういうことだ」。そんな発見が得られそうな、見応えたっぷりのこちらの写真集はどうだろう。今月刊行と相成る、鈴木理策『知覚の感光板』。

©Risaku Suzuki

印象派の足跡を追いかけて

 写真家の鈴木理策は、1990年代からこのかた、主に風景写真を撮影・発表してきた。今作に収められている写真も、風景ばかりである。

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 ページを繰っていくと、ポカンと抜けた青空に浮かぶ雲や、この上なく澄んだ山中の水流、白亜の海岸線に、ひっそりとした池の水面をたゆたう水草……。清新なイメージが次々と眼前に現れては消える。自分の手の内で「美」を自在に弄んでいるような優越感に浸れるのは、本というかたちでアートと接する良さだ。

©Risaku Suzuki
©Risaku Suzuki

 撮影地はどうやらフランスが多い様子。というのもこれらの写真、モネやセザンヌら、印象派と呼ばれた画家たちの制作地を巡って撮られたものである。モネなら彼が何度も訪れて絵にも描いているエトルタだったり、セザンヌは故郷エクス・アン・プロヴァンスの象徴サント・ヴィクトワール山へ至る道中、といった具合だ。

©Risaku Suzuki
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 しかしまたなぜ、写真家である鈴木が、印象派の面々の足跡を追いかけたのか。

 彼らが印象主義絵画を描いた19世紀後半というのは、発明されて間もない写真術が急速に伸長し、絵画の存在意義を大いに揺り動かした時期にあたる。事物の忠実な「写し」をつくるだけなら、写真という機械が見事にやってのけてしまう。それまで外界の「写し」づくりを担ってきた絵画にとっては、思わぬライバルの出現だったのだ。

 画家たちは写真術の登場に煽られて、絵を描くことの意味は何か、「写し」の作成以外にどんな可能性があるだろうか、真剣に考えることとなった。

 そうして導き出されたひとつの答えが、印象主義の絵画だった。モネやルノワール、ピサロにシスレーらは、私たちの目に事物はどう映っているのかを、自身の印象と当時勃興していた科学的精神に基づき探究していった。

 その過程で編み出された描法が、「眼だけの存在になりきって、瞬間の光を捉える」というもの。

 セザンヌがモネのことを指して、

 モネはただの眼だ。しかしそれは何と驚くべき眼であることか−−

 と称したという逸話は、印象派の目指した地点を、よく言い表していると思う。