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視覚の不思議に分け入っていく

 彼らが「眼」になりきれたのか、本当に瞬間を捉えることに成功したのかはともかく、その飽くなき探究のおかげで、いまも私たちの心を捉えて離さないあの印象派絵画が生まれてきたのはたしかなこと。

 そんな先人たちの試みを受けて、「ものを見るとはどういうことか」という問題意識に、写真の側から迫ろうとしたのが鈴木理策の仕事である。

©Risaku Suzuki

 百数十年の時を経て、鈴木は印象派の面々が見たのと同じ光景と出逢いに行った。その土地の光と風を感じながら、撮影を敢行した。彼らの視覚を「カメラの目=情緒の入らない純粋な機械の視線」で眺めたらどうなるか、徹底検証したわけだ。

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 そうして得られた画像はどれも、ひどく鮮やかだ。一つひとつの事物が、いちいち呼び名を付けられる以前の純粋さで、そこらにゴロリと無造作に投げ出されているような感じ。

©Risaku Suzuki
©Risaku Suzuki

 ああ、モネやセザンヌの眼には、世界がこんなふうに映っていたのかもしれない。彼らはこんな「見え」の感覚を、何とかキャンバスに留めようとして、私たちがよく知る印象派絵画を生み出していった。ということは、だ。いま眼前の写真集の中にある写真群には、印象派の素になった視覚が写し出されている。これらは21世紀に撮られたものだけど、写っているのは19世紀、印象派前夜の光景である。写真はときに時間を越えて、あり得ないほどの過去を撮ることもできるものなのだ。

 これは視覚の不思議、創造の偉大さ、人が視覚芸術を求め続けてきたことの意味までが、ひしひしと伝わってくる一冊。何度でも繰り返し、眺めたくなってしまう。

©Risaku Suzuki

知覚の感光板

鈴木 理策

赤々舎

2020年4月13日 発売