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 たとえば、先述の宮川彬良は、和光に中学・高校と通ったが、なかでも中学の3年間は《人生の節目であり、あの3年間が今の僕を作りだしていると言っても過言ではないんです》とまで語っている(※4)。和光中学には全校を挙げて学級演劇祭という行事があり、宮川のクラスの担任はとくに熱を入れていたという。3年のときにはロシアの作家ゴーゴリの喜劇『検察官』をクラスメイトたちが脚色し、劇中の音楽を宮川が作曲した。このほか、生徒がおのおの自分の仕事を見つけて、それぞれの得意なことを活かしながら、ひとつの舞台をつくっていった。宮川はその準備をしているときから、《僕は演劇をする人の音楽をつくる人になる!》と決め、実際、プロになってからは、舞台音楽家としても活躍している(※4)。

和光の中学・高校出身の作曲家・宮川彬良 ©文藝春秋

 宮川が和光に入るきっかけには、当時習っていたピアノの先生の知り合いに、和光OBの作曲家・三枝成彰がいたこともあったという(※4)。三枝は、NHK職員だった父から自分のなれなかった作曲家の夢を託され、幼くしてピアノを習わされた。だが、最初に入学した公立小学校の担任教師から「男の子がピアノなどやると結核になる」と言われ、父が激怒。三枝をもっと自由に育てられる場所はないかと探した末、和光学園を見つけ、編入させる。毎朝ピアノの練習があった三枝は、登校は1時間目が終わってからでいいと学校側から快諾を得ていたという(※5)

 三枝もまた、在学中は演劇に熱中した。高校時代は演劇部をつくり、自分たちで作・演出した芝居を学校だけでなく老人ホームや病院などもまわって年に何回も上演した。公演が近づくたび学校に夜まで残って稽古を続ける彼らに、教師の丸木政臣が「帰れ」と言いながらも、稽古が終わるまで手伝ってくれたという。丸木は三枝が中学に進学した1955年に和光に赴任し、のちには学園校長を務めた人物だ。

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やはり和光OBの作曲家・三枝成彰 ©文藝春秋

和光で音楽教育、演劇教育が盛んになった理由

 和光学園はもともと1933年に成城学園から分家する形でスタートし、翌年、小学校が開校、戦後の1947年に中学、50年に高校、53年に幼稚園を設け、66年には大学が開学した。このあとさらに和光鶴川幼稚園(1969年)、和光鶴川小学校(1992年)が新設されている。