「無邪気さ」が創作の素となる
イケムラ作品では絵画にしろ彫刻にしろ、少女の像がよく出てきて印象に残るけれど、それがいつの時代のどの地域の、どんな名を持つ少女なのかはまったくわからない。名指され規定されることをとことん拒絶しているかのよう。これもイケムラが、ルネサンス以前のカオスを覗き込みながら創作をしている現れなのか。
「そうかもしれませんね。実際のところを言えば少女というテーマは、1990年代に私の心の奥底のほうから湧き出てきたものでした。当時の生活感覚や政治的な状況なんかが絡み合って、いま自分なりの少女像を打ち出さなければという気持ちに駆られました。
少女性というのは、幼児と大人になる間のわずかな時期にしか現れないものですが、『個』『孤』『性』などの目覚めと密接に関係していて、時代や性別、年齢を超えて誰にとっても非常に重要なもの。これを何とかかたちに表そうと、10年ほどは集中して取り組んでいましたね」
イケムラの少女像は、ポーズも不思議だ。立っているものは何を見るでもなく、ただ呆然とそこに立っている。横になっているものもあるが、倒れてしまったのか打ちひしがれているのか、はたまた眠りについているのか判然としなかったりする。
「彼女たちが何をしているのかは、私にもわかりません。というより何をしているか、どんな状態なのかは重要ではないんじゃないか。何の役回りもなく、思い出や意識とも離れたところにいて、ただピュアに『在る』ということ。自他の区別さえなくしたそんな状況が私には美しく思えるし、少女の姿を通してそれを表したかったのだと思います」
では創作において、絵画や彫刻や文章といった手法はともかくとして、「ひと筆め」はいつもどこからやってくるものだろうか。
「そうですね、雲みたいなものが浮かんでくるというか……。具体的ではない、抽象的なイメージから入っていくことが多いです。自分のほとんど無意識のジェスチャー、たとえば画面にさっと線を引いて分割された平面を生み出してみる。そこに、何かが言葉になる前の状態の美しさを見出せたら、また無意識に次なる線が引かれて……、といった具合に創作は進んでいきます。
いったん言葉になってしまうと、そこに意味が生じて、意味づけが進んでいくとその分だけ、創作の無邪気さが消えていってしまう。だから創作する私にとっては、自分の無邪気さをつねに保っていなければならない。言葉や意味と距離をとっておくために、私は母国語から遠く離れて他の国で長らく過ごしてきたのかもしれませんね」
現在も脈々と続くイケムラレイコの創作と対面できる機会がやって来るのは、さほど遠い先じゃないはずだ。