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「地元の人たちと仲よくなりたくて……」志村けんが麻布十番の街を愛し続けた理由

なぜ六本木でも銀座でもなく、麻布十番だったのか?

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 新型コロナウイルスによる重度の肺炎で、3月29日に亡くなったコメディアンの志村けん(享年70)。「ザ・ドリフターズ」のメンバーとして人気を博し、「志村けんのバカ殿様」など数々の名作コントを世に送り出してきた。

 その志村が故郷の東村山とともに、最後まで愛した街がある。港区・麻布十番だ。この街で、若い女性タレントらと飲み歩く姿もたびたび報じられてきたが、なぜ、六本木でも銀座でもなく、麻布十番だったのか。

志村けんさん ©文藝春秋

「飲み屋も喫茶店も、なんとなく排他的なのね」

 志村と麻布十番との縁は今から約40年前に遡る。1979年に加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ」と相次いでギャグを大ヒットさせ、途中加入ながら、ドリフの中心人物に上り詰めていた志村。麻布十番に建つ新築マンションの一室を推定4500万円で購入したのは、1982年のことだった。

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ドリフでは最年少 ©共同通信社

 後に、“第2のホームタウン”に麻布十番を選んだ理由について、高校の後輩にあたる中山秀征との対談で、こう述べている。

〈ここは都会の下町ってよく言うけど、飲み屋も喫茶店も、なんとなく排他的なのね。よそ者は………みたいな空気でさ。俺は地元の人たちと仲よくなりたくて、たばこの吸い殻拾いやゴミ拾いを手伝った〉(「女性自身」2013年12月10日号)

 今でこそ、おしゃれな飲食店も多い麻布十番だが、2000年9月に南北線、12月に大江戸線が開通するまでは鉄道駅から切り離された「陸の孤島」と言われた。駅から遠い、という地理的な条件が「排他的」と志村がいう空気を作り出してきたのだろう。