〈7月21日(土)=第72日
まい日まい日、海と空ばかりだ。
それでも、海上のひとり暮らしが、苦しくなくなってきた。大して陸が恋しくない。
生きがいを感じる。〉
目的地は近い。食糧はタップリ残っている。水も十分だ。「マーメイド」はよく走る。
しかし、ずっと、ツイン・ステースルは、使っていない。危険はなるべく避けるほうがいい。ここまできて失敗したんでは、泣くにも泣けない。アビームからクォーターリーへ……ほとんど、レギュラーな走りかたでいく。
出発当時をおもいだすと、ウソみたいだ。あのころはさびしかった。四面楚歌だった。友人は反対する。家族はわかってくれない。パスポートはとれない。出れば出たで、シケがつづく、予定の半分しか進まなかった。センチになって、よく泣いた。
もう平気だ。日本の陸をメソメソふりかえることは、まるでない。そのかわり、むこう側の陸に着くのが、少しこわくなる。パスポートのこともある。知り合いもいない。横文字の国は、洋食と同じで、とっつきにくい。いくらか心配になる。これも、ゴール・インが現実感をともなってきたからだろうか。
それにしても、なれというものはふしぎだ。おもえば、生まれた瞬間から、一人きりで生活したことのないぼくだったのに……。さびしがり屋のぼくなのに……。
大きな汽船が鼻の先にとまっていた
〈7月24日(火)=第75日
夜明け前、起きてみると、風はSEより吹いていてくれる。タッキングして、スターボードにする。またバースにもぐる。
日の出から4時間たったころ、すぐ近くで汽笛が鳴る。キャビンから首を出すと、大きな汽船が鼻の先にとまっていた。〉
バースで眠っていた。ボワーッと大きな音が響く。チキショー、またマスト・ステップが鳴ってやがる。起こされた腹立ちまぎれに、舌打ちをして、シュラーフをかぶる。
つづいて、ボワーッ。つづけざまに、ボワーッ、ボワーッ。5、6回もくりかえす。こりゃ船だ。びっくり仰天、飛び出した。バッと、目に巨船が映る。すぐそこ、100メートルも離れていない。大きな煙を吐いている。
「マーメイド」の南側を走ってきて、エンジンをとめたところらしい。惰力で、なかなかストップしない。そのまま、横を通り越す。前をまわると、風下をあけて停止した。こっちの船を痛めない心づかいである。
やっぱり、外国の船は理解が深い。こりゃあ、シーマンのエチケットだ。ぼくを一人前の船長としてあつかっている。
こうなると、ぼくもインギンにしなくてはいけない。よし、いいところを見せてやろうと、ボートをベアリングさせて、先方のうしろをターンする。船尾を見たら、「PIONEER MINX NEW YORK」と書いてあった。すかさず、カメラをむける。
作法どおり、スターボードにある船長室の下にタッとつける。
貨客船だ。もう朝の8時だから、パッセンジャー(乗客)がデッキにならんでいる。けげんそうな顔も見える。とんでもない野郎に出食わした、とおもっているのかもしれない。
「アイ・アム・ジャパニーズス!」(日本人だ)
下から怒鳴る。日本近海を離れてから、はじめて人間にむかってしゃべることばだ。
「ホエア・ドゥー・ユー・ゴー?」(どこへいくんだ?)乗組員が尋ねる。
「アイ・カム・フロム・オーサカ・ジャパン・トゥ・サンフランシスコ」(大阪から桑港へ)
ところが、「サンフランシスコ」が通じない。なん回も聞きかえされる。いろいろにアクセントを変えてみる。ダメだ。「シスコ」といったら、わかってくれた。
「ハブ・ユー・ウォーター?」(水あるのか?)
オッサンが聞く。
「イエス。アイ・ハブ」(あるよ)
「イーツ?」はて、わからない。
「パードン?」(エッ?)
「フーズ」(食糧だよ)
乞食じゃあるまいし、恵んでなんかもらいたくない。なんでも、かんでも、捨てるほどあるぞ。そういいたいけれど、とっさには、ことばが出てこない。
「アイ・ハブ・ウォーター・アンド・フーズ」
それだけ答える。まだ、むこうはなんとか、かんとかいっている。なにかくれたそうな顔つきだ。
「ノー・サンキュー。ノー。サンキュー」(けっこう、けっこう)
やたらにくりかえす。
いっぱい持っていることを証明してやりたいが、変に品物を見せたりして、「こういうのをくれ」とでもとられては業腹である。
「ノー・サンキュー」で押し通す。