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借りたのは当然だから、返すのは損

 もし、ある人が、お金を借りたことで、相手(貸してくれた人)に対して「当然のことだ」としか思わないなら、恥の居場所がおかしくなります。借りたのが「当然」なら、返すのは自分にとって損でしかありません。借りた時点でプラスマイナスゼロ、すなわち当然だから、返す分、マイナスになるわけです。

 この理屈だと、貸してくれた人は、それを返せと言わないのが、両者(借りた人と貸した人)の関係を維持するもっとも「公正」な方法になります。ここでいう「関係」という言葉、後で繰り返して出てきますので、ぜひ覚えておいてください。

 韓国社会では、この関係を「情が多い(情に厚い)」関係、言わば「恥の無い」関係だと信じる人が、大勢います。このゆがんだ「当然」と「公正」の同一視は、韓国社会で蔓延しています。俗に言う裏の世界の人、法の死角で生きる人、そういう人たちだけの話ではありません。

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 実は、普通に金銭的に余裕がある人でも、なぜか借りたお金を返さない人は大勢います。それを「悪いこと」と考えず、「当然のこと(関係として公正なこと)」と考えているからです。「情」など人間関係に関わる感情を持ち出し、相手の権利をねじ伏せることが多いのは、その行為に一切の罪悪感を持っていない、すなわちそういうことを当然で公正だと思う人が多いわけです。社会がそういう人たちを増やしたのか、そういう人たちが増えたからそういう社会になったのか、それともその両方か、どちらにせよ、実に気まずい話です。

「ウリ意識」の根幹になにがあるのか

©iStock.com

 だから、韓国社会では、「貸したお金を返せ」と言ったせいで、相手(借りた人)が信じていた「公正(対等)な関係」が壊れてしまうという、笑うに笑えないシチュエーションも多発します。お金を借りて返さないでいる関係が公正(対等)な関係だったのに、相手から「返せ!」と言われたから、急に上下関係になり、自分(借りた人)が「下」になってしまうわけです。

 そして、それは情のない、とても恥ずかしいことであり、その恥は借りた人が自分の中から見いだすのではなく、返せと主張した人によって「かかされた」ものになります。すなわち公正で対等な関係は、自分のミスで壊れたのではなく、薄情な他人によって壊されたことになるわけです。

 ここでいう「公正な関係」または「当為さ」とやらが、韓国人の信じる「ウリ(私たち)」たる共同体意識の根幹です。私は、こう思っています。そうした世界でいう「公正」など、もはやお金の借り貸しという約束ではありません。ある種の拘束です。

 なぜ「絆」の韓国語が存在しないのか、少し分かる気もします。絆と約束は、平等や対等の関係でこそ自然に存在できます。拘束や情は、上下の関係でこそ自然に存在できます。