寒いあけがただった。依然として、風はない。沖にむけてあったバウをまわす。なかなか進まない。
Eの向い風が吹きはじめた。それに逆潮だ。金門橋の手前で、ストーム・ジブに変えた。ボートをつけるときに、タッキングしやすくするための準備である。もちろん、スピードは落ちた。
しかし、せっかくのフィニッシュだ。モタモタして、みっともない接岸をしたくない。最後のところで、ヘマを見せるくらいなら、着くのがおくれるほうがいい。
たくさんのボートが、ゲイトをくぐって、スイスイとすべりだしてくる。日曜日だ。むこうは早く走っているが、こっちの舟足はのろい。あわてることはない。あわてる乞食は、もらいが少ない。
午前11時、ゴールデン・ゲイト南端の橋桁を通過した。くぐりながら見あげる。人間はいない。車ばかりが走りまくっていた。
さて、どこへつけるか? ゴールデン・ゲイト・ヨット・クラブと、セント・フランシス・クラブがあることは、調べてある。だいたいの位置も飲みこんできたつもりだ。でも、ハッキリはわからない。
すれちがうヨットばかりだったのに、うしろから追ってくる一隻に気づく。45フィートのヨール(型名)だ。ハルは白い。グングン迫ってくる。家族でクルージングにいった帰りとおもわれる。
船員帽をかぶったオッサンがスキッパー(艇長)だ。奥さんらしい中年婦人も見える。若いお嬢さんたちが、クルー(乗組員)をやっていた。またたく間にならばれる。
「ホエア・ドゥ・ユー・カム・フロム?」(どこからきた?)
オッサンが怒鳴る。
もう、かくすこともあるまい。
「フロム・オオサカ・ジャパン!」(日本の大阪からや)
こっちも大声で叫びかえす。
このとき、ぼくが「ケンイチ・ホリエ。オオサカ・ジャパン」と答えたというのは、つくりばなしである。どうして、そんなことになったのか、よくわからない。
「ウォーッ」
オッサンは、ほえるみたいな声をあげた。
「どっちいったら、ええねん?」
「あっちや」
案内してくれるつもりだ。とわかって、ふっと心配になった。ままよ。
「アイ・ハブ・ノー・パスポート」
白状したら、オッサンはケロッとして、
「オッケー、オッケー。フォロー・ミー」(よし、よし。ついてこい)
そこで、いっしょに走りだす。しかし、むこうは45フィートだ。こっちは19フィートだし、3カ月も走っている。コンディションが悪くて、ついていけやしない。半分ぐらいのスピードがせいぜいである。
オッサンの船は、すぐにサーッといってしまう。それからまわって、むかえにくる。また離される。もどってくる。まだるっこいことをくりかえす。
「ハウ・メニー・デイズ・アー・ユー・クルージング?」(なん日かかった)
「スリー・マンスス」(3カ月)
長くかかったことを説明しようとおもって、野球帽をぬいで見せる。このボーボー頭をごらん、という意味のつもりだ。
そしたら、オッサンは、
「オー。アイ・アム……なんとか」
といって、帽子をぬいだ。見ると、ツルッぱげだった。アメリカ式のジョークである。吹きだしてしまう。
やっと、“監獄島”に近づく。コースト・ガード(海上保安庁)のランチがよってきた。ハゲのオッサンが、いったりきたりしているうちに、その辺にいた艇に連絡したんだろう。あとで知ったのだが、オッサンはテレビ関係のエライさんであった。
ランチが横づけになる。ボートをとめて、サイドをつける。波が高くて、うまくいかない。あきらめて、曳航してもらうことになった。
ひっぱられて、アクア・パークに入る。波はない。ヨット・ハーバーではなさそうだ。大勢が泳いでいた。海水浴場なのだろう。接岸はできそうにない。
丸太ン棒を突っ立てて、板を張っただけの防波堤があった。コンクリートで固めた立派なのとはちがう。しかし、うまく作ってある。
ランチはクイにもやいをとった。エンジンをバックに入れたまま、かけっぱなしだ。日本人なら、アンカーを打ってから、バウをよせる。が、ヤツらはアンカーなんか使おうとしない。スクリューを逆にまわして、バックさせている。バウからもやいをとってあるから、船は岸に直角に立つ。
ぜいたくなまねをする、とあきれる。これがアメリカ式なんだな。そうおもったとたん、デスティネーション(目的地)に着いた感触が肌を流れた。
ウワァー、アメリカや! サンフランシスコや! ヤッタッターッ!
岸壁には、青い眼の役人や新聞記者が、ズラリと待ちかまえていた。「マーメイド」はコースト・ガードのランチに横をつける。
快晴のま昼である。日本晴れだな、とおもった。