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人気が出始めたのは1年経ってから

 話は1992年にさかのぼる。大学を卒業後、光山氏が最初に身を置いたのは高校の野球部の先輩が経営する酒屋だった。そこに10年間勤めて2002年に退職。上京して数カ月後にホルモン酒場の「わ」を吉祥寺にオープンする。

 酒屋の経験があるというものの飲食店に関しては全くの素人だった。最初はアルバイトで飲食の世界を知ろうと、あちらこちらに面接へ出かけたが、当時32歳の光山氏を雇おうというところは皆無だった。年齢のせいではないかと本人は振り返るが、眼光鋭く、図体が大きく、さらに酒屋出身の光山氏は扱いにくい人物に見えたに違いない。

 業を煮やして、ならばまずはやってみようと開いたのが「わ」だった。東京にはほとんどなかったスタイルの店で、大阪生野区出身の光山氏にはなじみのあるホルモンを七輪で焼く珍しさが評判となった。焼酎もメニューも500円均一という割り切りの良さに、客だけでなく飲食業界関係者も注目した。他店では1杯1000円以上するようなレアな銘柄であっても、なみなみと注いで500円しかしないのだから、酒好きが放っておくわけがない。だが、予約が取れないほどではなく、一部のマニアに知られた吉祥寺の名店に過ぎなかった。

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定番のセッティング。プチトマト、キムチ、香辛料など

 転機となったのは2012年11月の「肉山」開店である。そこから5年もしないうちに、全国展開を目指せるようになったわけだ。「開店して数カ月はお客さんを満足させられるような料理を提供できず、人気が出始めたのは1年経ってからだった」と光山氏は当時を振り返る。

「肉山」の売り物は赤身肉。高級な肉は脂の多い霜降り肉という常識に、あえて逆らった。「あんなもん、そんなにたくさん食べられないでしょう」と赤身肉を大きな塊のまま焼いて、切り分けて皿で客が満腹になるまで提供するというスタイルを思いついた。ところが単純に炭火で焼くだけの中途半端なやり方では、肉の旨味を引き出せなかった。霜降りのように、だれが焼いてもおいしい肉ではなかったのだ。

 そのことに気づいた光山氏は、東京・丸の内にある「アンティカ・オステリア・デル・ポンテ」と、東京・新宿にある「オステリア・ヴィンチェロ」の2人のシェフに教えを乞うた。業態が違うとはいえ、わざわざ何度も吉祥寺の店に出向き、手取り足取り焼き方を伝授するというのは普通ではない。このころから光山氏は、周囲を巻き込んで成長していく不思議な力を身に付けていった。

名物はなんといっても赤身肉

 たとえば光山氏の超能力には有名寿司店の大将も引き寄せられてしまう。阿佐ヶ谷にある予約が難しいことで知られる「鮨 なんば」のオーナー、難波英史氏もその一人。店が休みのとき、突然、光山氏から連絡が入り、軽井沢でバーベキューをやるから顔を出して欲しいと頼まれる。断って当たり前のところを、気がつけばアワビを手にして現地に向かっていたのだという。「なぜなんでしょうね」と難波氏は笑いながら振り返る。

(次回〈予約の取れない店「肉山」の戦略#2 Facebookを誰よりもうまく使った飲食店〉に続く)

肉山

武蔵野市吉祥寺北町1-1-20 藤野ビル 2F
0422-27-1635
https://tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13155313/