官僚的な「事なかれ主義」と戦う医師
医師リウーはオラン市で「謎の熱病」が流行し、死亡例が出始めていることを危惧します。そしてこの疫病が「ペスト」であることを確信し、役所に、緊急の対策をとるよう訴えます。しかし、法や行政は、現実より形式的な言葉の方を大切にしますから、ペストがもたらす災厄への対応ではなく、ペストという言葉をどう定義するかとか、もし今流行している熱病をペストと認めた場合に、社会活動にどんな影響をもたらすかといったことばかりを議論し、ペストが「ペスト」であることを認めないのです。カミュは小説の中でそうした官僚的な「事なかれ主義」を徹底して皮肉に描き、強い批判を行っています。
〈医師たちは相談し合い、リシャール(医師会の会長。官僚的な姿勢を代表するような人物として描かれる)が最後にこう言った。
「つまり我々は、この病気がまるでペストであるかのようにふるまう責任を負わなければならないわけだ」
このいいまわしは熱烈に支持された。(中略)
「いいまわしはどうでもいいんです」とリウーは言った。「ただ、これだけは言っておきましょう。我々はまるで市民の半数が死なされる危険がないようにふるまうべきではない。なぜなら、そんなことをしたら、人々は実際に死んでしまうからです」〉
こうした場面は驚くほどのアクチュアリティ(現代性)をもって、読者の胸に響くのではないでしょうか。今回のコロナ禍でも「経済活動を制限してはいけない。経済が回らなくなったら、そもそもコロナの蔓延の前に多くの人が死んでしまう」といった趣旨の、経済活動を何より優先する言説が、流行の初期段階でずいぶん出てきましたが、それとまったく同じ状況が『ペスト』では描かれているのです。
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しかし、感染症の蔓延によりどう人間がパニックに陥るかを描いた小説や映画は、『ペスト』のほかにも多くある。中条氏はその中でとりわけ今『ペスト』が読まれている理由について「カミュが疫病の蔓延する封鎖された街で何が起きるのかを描いただけでなく、『疫病という不条理』に反抗し、戦う人々を丁寧に描き出したからでしょう。カミュの小説家としてのすごみも、そこにあります」と分析している。
「文藝春秋」6月号および「文藝春秋 電子版」掲載の「カミュ『ペスト』は教えてくれる」では、さらにカミュの『ペスト』を徹底解説。カミュが本当に描こうとしたもの、『ペスト』を書いた背景から、疫病が蔓延する世界で、人はどうあるべきか――詳しく論じています。
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カミュ「ペスト」は教えてくれる
【文藝春秋 目次】<総力特集202頁>緊急事態を超えて ウイルスVS.日本人 山中伸弥 橋下 徹/磯田道史「続・感染症の日本史」/WHOはなぜ中国の味方か
2020年6月号
2020年5月9日 発売
定価960円(税込)