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”東大クイズ王”伊沢拓司 塾バイト月100時間も「クイズで食えるようになるまで」――2019年 BEST5

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「東大模試でまさかの0点」東大受験の恩師・林修先生との思い出も

note

「高校生クイズで2連覇」がもたらしたもの

――ここで、突然クイズなんですけど。

伊沢 おっ。ぜひぜひ。

――「素粒子の一種であるクオークの名前の由来となった鳥の鳴き声が登場するジェイムズ・ジョイスの小説は何でしょう」

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伊沢 『フィネガンズ・ウェイク』です。僕が「高校生クイズ」で優勝した時の問題ですね。

――「高校生クイズ」は個人史上初の2連覇でした。

伊沢 僕を世に出してくださったのがあの番組です。それまでのクイズの世界というのは、誰も人が入ってこない状況で、高校生の一番大きい大会でも70人くらい。本当に競技人口が少なかったんです。

 

―― ちょうど伊沢さんが初出場された2010年の「高校生クイズ」は少し形式が変わった初期でもありました。

伊沢 知力の甲子園路線ですね。それまでは謎解きなど所謂「クイズ」ではない形式だったのが、超難問の「競技クイズ」形式に変わったんです。そこから開成高クイズ研究部で優勝を目指し始めました。

――「高校生クイズ」の対策はどんなことを?

伊沢 先輩方が先に出ていたので、実地の感想を聞いたり、それをオンエアと照らし合わせたりしていました。対策の材料はたくさんありましたね。加えて、番組制作側がどう考えて、どう人を取り上げていくかみたいなことも考えていました。

「東大王」収録中もメモ 自分に出された問題以外もくまなくチェックするという

――制作意図まで研究していたんですか?

伊沢 例えば、進んでいくと1対1の場面も出てくるんです。そういった時に、「東大合格者数トップの東西対決」みたいな形で番組が取り上げやすい組み合わせにしたくなるんじゃないか、と対戦相手を予想していました。

――そこまで攻略に取り組む原動力はなんだったんでしょう。

伊沢 僕は中学生の時、フットサル部をやめて、ずっと家で音楽を聴いて漫画読んでクイズして……という生活をしていたので、日の目を見ることがないわけです。開成高のクイズ研究部も小規模で、少ないときで部員が8人しかいなかった。それがもう、ここで優勝すれば、ゴールデンタイムのテレビにドカーンと出れるんだという価値がいきなり現れたんです。当時は正気じゃいられなかったですよね。

 

――優勝して、周囲の反響はどうでしたか?

伊沢 同級生たちはいい意味で大騒ぎしないでいつもどおりに接してくれました。クイズに対してだったりとか、クイズ研究部への反応はガラリと変わりましたね。。本当に世の中と自分をつなげてくれた存在です。15歳の時に世の中とつながれてよかったなというのはすごく思います。

「知識を得たい!」クイズへの意識が変わった優勝旅行と3.11

――「高校生クイズ」では優勝賞品が1000ドルと海外旅行ですよね?

伊沢 はい、優勝チームの3人でフランスへ行くことになっていたんですが、当時3.11があって……出発がその10日後だったんです。

――それでも旅行は決行されたんですね。

伊沢 日本が大変な時期なのに自分たちは呑気に旅行なんて、と悩みました。到着したシャルル・ド・ゴール空港で大きなデジタルサイネージに、福島第一原発の映像が流れていたんです。それを見た時に「俺、フランスに来てよかったのかな……」ってさらにモヤモヤしていました。その時は日本の状況というのを海外から見ることになって。だからこそ「今何が起こっているのか知りたい」と思いましたね。

 

――実際に被災地を訪れたとお聞きしました。

伊沢 震災から3年後の大学2年の時に、女川だったり仙台の若林だったりの海沿いを1人、自転車で走ったんです。やっぱり生で見ると、全然違って。3年も経っていましたが未だ看板もひしゃげてるし、まだ家も取り残されたまま。一方で、復興のトラックがずっとせわしなく動いていて、復興をその手で進めている人もいる。その光景がフランスで映像越しに日本を見ていた時とシンクロして、もっとちゃんと現場でいろんなものを知りたいなという気持ちが芽生えました。これまではクイズに勝つための「情報」しか見えていなかった僕が、ニュースでもなんでも身の回りのことを広く知るために純粋に「知識」を得たいと思うようになりました。