5日午後、老衰のため87歳で亡くなった横田滋さんは、朴訥で腰の低い人だった。私も講演を何回か聞いている。
2014年のこと、私は神奈川県で開かれた拉致問題をテーマとした集会に講師として招かれた。滋さんと妻の早紀江さんが参加してくれ、直接言葉を交わした。
20代のころ、神奈川県川崎市川崎区に住んでいたと自己紹介すると、滋さんは「私の家の近くですよ」と笑顔で応じてくれた。
滋さんが死去した翌日の新聞には、滋さんを追悼する記事があふれていた。「めぐみさんを探し続けた」「娘に再会できないままの無念の死」……。「北朝鮮への怒りがこみ上げる」とコメントを寄せた人もいる。
もちろん、滋さん自身にも、無念さや怒りがあっただろう。
「目の玉を真ん中に寄せて、おどけてみせる」
しかし滋さんは、めぐみさんのことを語る時、なぜか楽しそうに見えた。
滋さんは写真好きで知られる。家族の写真をよく撮っていたが、「カメラを向けると、めぐみは写させないように目の玉を真ん中に寄せて、おどけてみせるようなお茶目なところがあった。冗談も好きで人を楽しませてくれた」と語った。
この性格は、後に北朝鮮でめぐみさんと会った人の証言とも一致する。めぐみさんを語り、思い出を共有するのは、苛酷な現実を忘れることができる短い時間だったのだろう。滋さんの生きがいにもなっていたと思う。
そのため、どれだけ多忙になっても全国を講演で飛び回り、取材も受けてきたのではないか。早紀江さんも「言うことを聞いてくれない」とこぼすほどだった。
滋さんは講演会などで、しばしば日本政府や、支援団体である「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)の方針と違う発言をした。周囲からたしなめられることもあった。こういう発言は、なぜか報道されることはなかったが、いま考えると大切な内容を含んでいたと思える。いくつか紹介したい。