今の藤浪に発破をかけることは逆効果なのではないか?
そう考えると、今の藤浪に実戦登板を何度も促して、「乗り越えろ乗り越えろ、がんばれがんばれ」と発破をかけることは、かえって逆効果なのではないか。
金本知憲監督は先述した8月16日の広島戦の前々日に「(今回の先発は)今後、彼の人生を左右する」などとコメントして話題を呼んだが、個人的には危うい言葉だったように思う。金本監督ならではの体育会系的な荒療治は、精神力を鍛えるためにはある程度なら有効かもしれないが、精神に負った深い傷を癒すためには無効どころか、そこに塩を塗る行為に近い。鍛えることと癒すことは、まったくの別物だ。
私は野球については素人だが、これまで執筆活動と並行して大学や専門学校、進学塾などで教鞭を執り、多くの学生を指導してきた。そういう中で、なんらかの問題に悩んでいる、あるいは人生そのものに苦しんでいる学生とも数多く接してきたのだが、彼らに対して「がんばれ」「乗り越えるしかない」といった熱い言葉は重荷にしかならなかった経験がある。心の問題は発奮を促すようなものではなく、寄り添うものだと痛感してきた。
いったん野球から離れて心を休めてほしい
今の藤浪はたぶん野球を楽しんでいない。23歳の若者らしい、弾けるような瑞々しい笑顔は久しく見ていない。きっと彼は子供のころ、野球を始めたばかりのころ、あの有り余る才能と破格の体格を存分に生かして、夢中で白球を追いかけていたんだと思う。そういう野球の原風景みたいなものが、23歳の藤浪からはまったく感じられない。
もしも今の阪神に新庄剛志がいたなら、「乗り越えろ」ではなく「楽しめ楽しめ」と明るく声をかけて、被り物でもやらせていたんじゃないか。以前に本連載でも書いたけど、その意味でも今の阪神には新庄剛志が足りないのかもしれない。
極端な話、私はいったん野球から離れてみるのも良いのではないか、と思っている。シーズンオフに米国留学のプランがあるなら、今からしばらくの休暇を与えて、異国という藤浪の顔を知る人が少ない地域で心を休めるのも一案なのではないか。今の藤浪には投手としての再生プランよりも、心の解放と療養のほうが先決のような気がする。
もちろん、いつかは乗り越えてほしい。だけど、いつか乗り越えるためには、まずは乗り越えるための気力が必要だ。今はその気力をみなぎらせるべく、ゆっくり休むときなのではないか。野球から離れることで、野球を取り戻すことだってあるはずだ。
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