いまから90年前のきょう、1927(昭和2)年9月1日、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)が日本最初のレビュー『モン・パリ』を宝塚大劇場(兵庫県)で上演した。『モン・パリ』は、宝塚の演出家・串田福太郎(演じたのは奈良美也子)が、神戸埠頭から上海・インド・セイロン(スリランカ)・エジプトを経由してパリへといたる外遊を振り返るという設定で、幕間なしの全16場が1時間半にわたって絢爛たる踊りと歌とともに演じられた。
ヨーロッパの場に移る第14場では、パリ行の汽車になぞらえた衣裳をまとった23人のダンサーとひとりの旅人、総勢24名により、本邦初のラインダンス「汽車の踊り」が披露された。さらにラストの第16場では、劇中劇「カジノ・ド・パリ」のレビューの場面が設けられ、ベルサイユ宮殿を背景に、大階段からルイ14世と王妃が下りてフィナーレを迎える。ラインダンスと階段レビューは日本人に鮮烈な印象を与え、以後、宝塚のレビューでは必ず使われる演出となった。
宝塚歌劇は1913(大正2)年、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の専務だった小林一三が、宝塚唱歌隊の名で創設した。初期はお伽歌劇を中心に上演していたが、24年7月に「4千人劇場」と呼ばれる大劇場が完成したのを機に、それにふさわしい演目が検討されることになる。このため、演出家の岸田辰彌が欧米に派遣され、およそ1年半後、当時パリで人気を博していたレビューを日本に持ち帰った。『モン・パリ』はそのスケールの大きさから、岸田の提示した制作予算も破格で、劇団内では猛反対が起こる。しかし小林一三が岸田案を承認し、実現にいたった。
『モン・パリ』は2ヵ月の公演を好評のうちに終えると、1928年には東京の歌舞伎座に進出、5日間の公演は超満員となる。同名の主題歌もヒットし、29年にはコロムビアからレコードが発売され、10万枚の売り上げを記録した。この大成功により、以後、レビューは宝塚の主流となる。ちなみに現在の宝塚歌劇団は、英語表記では「Takarazuka Revue Company」の名称を採用している。