『メタルギア』には一貫して「反戦・反核」というメッセージがある
では、インタラクティブなストーリーテリングを要求されるビデオゲームでそれは可能なのか? その問いに対する私なりの回答(と苦闘)が30年以上にわたる『メタルギア』の制作だった。
ハードウェアの制約から生まれた『メタルギア』は、ステルス・ゲームというジャンルをつくったが、そこには一貫して「反戦・反核」というメッセージがある。私の親の世代は、第2次世界大戦中に生まれている。私たちの世代は子供のころから直に戦争体験を聞いて育った。身の回りの映画や小説などからも、戦争や核兵器の悲惨さや不条理を学んだ。ゲームというメディアが本来的に「戦い」や「競争」と相性がいいのだとしても、いやだからこそ、「反戦・反核」を訴えることはできるし、伝えることが必要だと思っていた。その思いがステルス・ゲームを産んだのだ。
さらに、ゲームの流れを変えたいという意思もあった。
『メタルギア(MG)』『MG2』『メタルギアソリッド(MGS)』『MGS2』と発表してきたが、ゲームを通じて多くのユーザーと交流してわかったことがある。なぜ今のこの世界はこうなっているのか、戦争や核兵器が恐ろしいものだというのならば、なぜそれはなくならないのか。若い世代には、そのことがわからない、ということに気づかされたのだ。
『MGS3』では米ソ冷戦時代を伝えたかった
では、その原因にもなった時代を描いてみよう。そういう発想で生まれたのが『MGS3』(2004年)だった。舞台は1964年、米ソ冷戦の時代である。今ではソビエト連邦という国家があったことすら知らない人たちもいる。そんな現状に対して、過去のことを伝える必要がある。そう考えたのだ。
第2次世界大戦中は連合国だった両国がなぜ敵味方に分かれ、核兵器で武装しているのか。イデオロギーによって人為的につくられた敵と味方、善と悪。絶対的な正義も悪もない。時代によって変わる善悪に翻弄される人の運命と意思を、ゲームによって伝えたい、体験してもらいたい。そのための仕掛けとして、『MG』『MG2』でソリッド・スネーク(善・正義)の敵だったビッグボス(悪)を主人公にした。
のちにクリストファー・ノーランが『ダークナイト』(2008年)で描いたように、バットマンという正義も、ゴッサム・シティという「世界」を維持するために、悪と呼ばれることもあることを体験させたかったのだ。
『MGS:ピースウォーカー』(2010年)では、1974年の中米コスタリカを舞台にした。軍隊を持たない国家コスタリカで、軍とは何か、核武装による平和とは何かを考えて欲しかった。核兵器が世界を滅亡させることがわかっていながら、それを「抑止力」として保有するのはどうしてなのか。スネークは最終的にマザーベースが核武装することを選択する。ユーザーはスネークを通じて、その選択を体験するのだ。
ユーザーの復讐心と「正義」を揺るがす仕掛け
『MGSV:グラウンド・ゼロズ』(2014年)では、『ピースウォーカー』でつくったマザーベースが崩壊させられる。ここでユーザーは、大いなる喪失感とともに復讐心を抱く。有無を言わさぬ敵の攻撃によって、ユーザーは逃走することもできない。戦わざるを得ない状況に巻き込まれるのだ。やられたらやり返す。これが戦争の本質であり、戦争の始まりの瞬間である。『グラウンド・ゼロズ』ではそれを描いた。
『MGSV:ファントムペイン』(2015年)では、復讐の実行が描かれる。ユーザーは「報復」のために仲間を集め、資金を集め、軍事力を蓄えていく。身を守るための「抑止力」として核装備もする。
ゲームを進めていくうちに、ユーザーは当初抱いた復讐心と、これまでのシリーズで一貫して背負っていた「正義」が揺らいでいくのを感じることになる。さらにオンラインでは、それぞれのユーザーが自らの核を自発的に廃棄し、世界中から核兵器がなくなるという仕掛けも用意していた。現実の世界では無理でも、ゲームというフィクションならば、核兵器を製造してきた人類が、自らの意思でそれを放棄し、核なき世界を実現するという未曾有の「体験」ができるはずだ。そのゲームならではの体験を通じてこそ、「反戦・反核」というメッセージを理解してもらえるのではないだろうか。そう考え続けていた。ユーザー自らが核を必要とし、それを世界中のユーザーたちが共に廃絶する。この体験のプロセスこそが『メタルギア』の最大の狙いだった。その「体験」を実感してもらうために、『MGSV』では、「ヒーロー(スネーク)をユーザーに返す」というゲームにしかできない仕掛けを用意した。その上で、核武装したユーザー(スネーク)が、自らの自由意志で核廃絶をする。これが『MGS』シリーズが終わるという狙いだった。
『ダンケルク』も『大脱走』も『メタルギア』も、敵を倒すことが勝利なのではなく、命を守ることこそが勝利なのだ、ということを伝えようとしている。