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 そして実は同じような視線は、私がトランスジェンダーだと知っているシスジェンダーの女性からも向けられることがある、と気づいたのでした。というのも、不自然なほどに外見を誉められ、ちやほやされることがあるのです。私を取り囲み、「わー、すっかり綺麗になって」「いやもう、本物の女のひとより綺麗」「ああでも手は大きい」などと。好意を向けられているのはわかっています。けれど、そこには男性たちが女性を論評するときと似た、「審査会」の雰囲気が確かにありました。そして、「本物の女ではない」という、おそらく無自覚の見下しも。だからこそ、自分たちを「審査」する側に、私を「審査」される側に置いてはばからなかったのでしょう。

 もちろん、男性がみな女性を見下しているわけではないように、シスジェンダーがみなトランスジェンダーを見下しているわけでもなく、大げさに聞こえるかもしれません。とはいえ、ひとつひとつは小さなことでも、見下されたという経験は降り積もります。女性としてのそれも降り積もり、トランスジェンダーとしてのそれも降り積もり、両方合わせると、結果的に大きな山になっていきます。

トランスジェンダーである女性として生きるということ

 そして、トランスジェンダーであり、女性であるという両方が合わさったがゆえの大変さにも直面することとなりました。

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 女性であると周りに見られるようになると、単に見下されやすくなるというだけではありません。性的な対象として見られることも非常に多くなります。電車のなかで体を触られる、知らない男性に付きまとわれる、いきなり性的な言葉を投げかけられたり、性的なニュアンスをまとわせて「値段の交渉」を始められたりする。けれど、困ったことはこれだけではないのです。

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 例えば見知らぬひとに体を触られるとき、それ自体がもたらす苦痛や恐怖だけでなく、もうひとつの恐怖があります。「トランスジェンダーだとバレたらどんな目に遭うだろう」というのが怖いのです。テレビや漫画でも、シスジェンダーの女性には優しいひとがトランスジェンダーの女性にはぞんざいであったり、場合によっては暴力的であったりといった場面を何度も見てきました。(そうした話については、Netflixの『トランスジェンダーとハリウッド』にもあります)

「女性専用車両でバレたらトラブルに発展しないだろうか」

 そうしたものをたくさん見て育った私からしたら、「触られるだけでも恐ろしいのに、もしバレまでしたら、さらに酷い目に遭うのではないか」という考えがどうしても頭に浮かびます。そうすると、例えば声を出すのは、ただでさえ怖いのに加えて、「声でバレたらどうしよう」という恐怖のせいでよりいっそう難しくなったりします。