ゲイを中心に、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、いわゆるLGBTの人々が夜な夜な集り、思い思いのひと時を過ごす。そんな「新宿二丁目」の様相が変わりつつあるという。あらゆる多様性が許容される淫靡な街に、いったいどのような変化が訪れているのか?
街とともに人生を歩み続ける男女の言葉から、新宿二丁目のこれまでとこれからに迫った『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(角川新書)から、50年以上も営業を続ける老舗ニューハーフクラブ『白い部屋』のコンチママが語った、二丁目への思いを紹介する。
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ゲイタウンの中心は、三丁目から新宿二丁目へ
上京後しばらくして、コンチママは自分の店を持つこととなった。
弱冠20歳の若者の決断だった。内装は壁一面が真っ白で、ただ1枚の絵がかけられているだけだったので、店の名前は「白い部屋」とした。
「当時はまだ若かったので、『お金を出すから店を持たないか?』って言ってくれる人が何人かいたんです。でも、そこで身体の関係でお店をはじめてしまうとダメになると思ったから、きちんと手続きを踏んでお金を借りて、その代わりそれ以上のものをきちんとお返しするという約束で、新宿二丁目で《白い部屋》をはじめました。三丁目と比べたら、家賃が全然安かったし……。それに、当時はまだ売春防止法以前のいかがわしいムードもたくさん残っていたから、『こういう雰囲気もいいな』って思ったのね」
売春防止法──。
いわゆる「売防法」が施行されたのが1957年4月1日のことだった。
この法律によって、翌1958年に「赤線」と呼ばれる公娼制度が正式に廃止されることとなった。同時に新宿二丁目も、表向きには売春街としての歴史を終えた。
コンチママが「白い部屋」をオープンした1968年には、すでに「売防法」が施行されてから10年以上が経過していたが、「それでもなお売春婦は残っていた」という。
「家賃は安いし、当時はまだ赤線や非公認の青線みたいなお店もあっていかがわしい雰囲気は残っているし、新宿二丁目でオープンすることにはなにも迷いはありませんでした。三丁目は末廣亭があるので健全できれいな街だったけれど、当時の二丁目はまだ女のコが街角に立って、暗闇のなかでマッチ1本擦りながら交渉するような雰囲気でしたからね。でも若い頃は、《特殊な世界の人が遊びに来る特殊な場所》の方が淫靡で面白いし、『これだったら、むしろすぐに元が取れるじゃない』と思っていました。意外と先見の明があるんですよ、若い頃はね。いまはもう年を取ったので考える力もないけれど(笑)」
なじみの客から金を借りて初めての店を持った。「白い部屋」は開店早々、大繁盛を記録することとなった。
「結果的に5年くらいで、借りたお金は全部お返ししたんです。商売はすぐにうまくいきました。おかげさまで、25歳くらいまでのあいだに人に任せたりしながら、新宿二丁目や五丁目でゲイバーを5軒ほど経営していました。その他にも中野の駅前に割烹料理屋を開いたり、麻雀屋をやったり、若いながらにいろいろなことをしましたね」