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ゲイタウンとしての新宿二丁目が爛熟し始める

 前述したように、コンチママが店をオープンした頃には新宿二丁目には7~8軒程度しかゲイバーはなかった。しかし、1970年代に入る頃に様相が変わってきたという。

「私がお店を開いて数年後のことだから昭和45年ぐらいからかしら、少しずつ二丁目にゲイバーが増えていきました。《白い部屋》が人気店となったことで、多くの店が二丁目に進出してきたんです。私は、友だちに片っ端から『半額でもいいから遊びに来て』って声をかけました。同時に、『友だちもたくさん連れてきて』ってお願いしたせいもあって、当時は平日にもかかわらず超満員で100人以上は入っていました。水商売というのは口コミなんです。伝票の束もこんなに厚かったですから」

 人差し指と親指を大きく開きながら、コンチママは笑った。

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写真提供/白い部屋

「白い部屋」が大繁盛することで、当時まだ賃料の安かった新宿二丁目に他店が少しずつ進出することとなった。その結果、現在に続く「ゲイタウンとしての新宿二丁目」が形成される。同時に、「ゲイタウンとしての新宿三丁目」は衰退していき、二丁目と三丁目の棲み分けがなされていくこととなった。

「お店が繁盛したのは、かわいい男のコを大事にして、彼らを目立たせるように気を配ったからだと思います。男のコたちの採用基準は、もちろん顔(笑)。すぐに、『あの店にはカッコいい男のコたちがたくさんいる』って噂が広がりましたからね。当然、すぐにライバルも二丁目に進出してきました。だけど、ずっと負けませんでしたね」

 コンチママの言葉に熱がこもる。

「夜の世界は長続きしないものなんです。ましてや、ゲイなんてみんな移り気だから、新しくて面白い場所を見つけたら、すぐに乗り換えちゃうからね(笑)。そうしたなかで50年も続いてきたのは誇りです」

 半世紀にわたって店を経営してきた自負がにじみ出る発言だった。

「ノンケ」も受け入れた「白い部屋」の予見

 開店当初の「白い部屋」は、現在のようなショーパブ形式ではなかった。

「オープンしてから4~5年のあいだは普通のゲイバーでした。そこから次第に、私たちが男の格好のままで踊るようになったのね。知っている音楽に合わせて腰を振ったり、柱に抱き着いたり(笑)。いわゆる余興のようなものでした。お客さまがそれをよろこんでくれるようになって、それがショーの原型になったのかもしれません」

 オープンした頃は「女性客お断り」だった。

 しかし、その後は新宿二丁目の他店のように「会員制」を謳って、「ノンケ」と呼ばれる一般客を排除しなかったことが奏功した。

 その結果、女性を中心に一般客が増えていく。男性客に連れられて来る女性客が訪れることで、「ショーの原型」が、少しずつ変容していくこととなった。

 こうして、銀座の高級クラブで働いているホステスや、新宿・歌舞伎町の水商売の女性たちがこぞって「白い部屋」を訪れるようになった。