帰ってきた「伝説の料理人」リドリー・スコット
沈黙を破ったのは、リドリー・スコットだった。『エイリアン』フランチャイズの所有者である20世紀フォックスに望まれて、2012年、リドリー・スコットが1作目のプリクエル(前日譚)である『プロメテウス』の監督として、再登場したのだ。
そして今年2017年、『エイリアン:コヴェナント』が公開された。
あのフィンチャーにも、ジュネにも、うまくできなかった『エイリアン』というフランチャイズの料理をリドリー・スコット御大がもう一度手がける。名店の看板を背負っていても、料理長が変われば出される料理の味は違ってしまう。作家性が強く刻印されたフランチャイズであればあるほど、料理人の個性や能力が問われることになる。だから「伝説の料理人」の復活が望まれる。
プロメテウスは、人間に火(テクノロジー)を与えた神である。それが示唆するように、このプリクエルは、創造主(クリエイター)と被造物(クリーチャー)の関係がテーマになっていた。『コヴェナント』もそのテーマを継承している。
神が人間を創り、人間はアンドロイドを創った。ではエイリアンは誰が創ったのか? 物語の次元ではその謎が語られる。しかし、リドリー・スコットがどこまで意図したのか定かではないが、これは『エイリアン』というフランチャイズの創造主(クリエイター)は誰か、というメタな謎を語っている。
恐怖を主題に作られた1作目の『エイリアン』は、キャメロンの手でアクションに転じた。その後の作品は迷走するが、それでも一貫していたのはエイリアンというクリーチャー(素材)をどう調理するか、という工夫と苦闘があったことだ。同じ素材を使っていながら調理方法を変えてきた。もし、キャメロンが『3』『4』と続編を撮り続けていたら、アクション・シリーズとして大ヒットしていたかもしれない(そうなっていたら、リドリー・スコットがプリクエルをつくる機会もなかったかもしれないのだが)。
しかし、帰ってきた「伝説の料理人」であるリドリー・スコットによる新作は、調理方法による新たな挑戦ではなく、創造主(クリエイター)は誰なのか? という別の問いかけだった。
創られた者が、新たに創造主となる
『エイリアン』フランチャイズそのものが作品の主題(テーマ)になったのだ。素材の産地や薀蓄を一生懸命に説明し、料理が二の次になってしまった。そのせいか、リドリー・スコット自らが、自分は『エイリアン』フランチャイズの創造主(クリエイター)なのか、という疑問を吐露してしまっているように見えるのだ。
今回のリドリー・スコットの視線は、「味」やサービスではなく店の看板と食材に向けられている。
創られた者が、新たに創造主となる。その創造主が、さらに新たな創造を産む。創造主を創る無限の連鎖が、ユニバースを維持する。それは、個が死んでも、種を生かし続ける二重螺旋のようだ。
19世紀末生まれの映画と、20世紀生まれのビデオ・ゲームという表現形式=エンタテインメントは、古典的な物語の形式を脱しつつある。エンタテインメントは、終わらないユニバースを志向する。
コンテンツの所有者は映画会社だが、それを効果的に調理してIPに新しい命を吹き込むのはクリエイターの手腕とセンスである。彼らはそれをわかっているから、新しい料理人=才能の取り合いをするのだ。マーベル・シネマティック・ユニバースや、DCエクステンデッド・ユニバース、『ジュラシック・ワールド』『スター・ウォーズ』などなど、ユニバーサル志向のエンタテインメントは、クリエイターの獲得に恐ろしいまでに貪欲である。