『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』というタイトルは、アーサー・ケストラーの評論『The Ghost in the Machine(機械の中の幽霊)』にインスピレーションを受けていることは、よく知られている。
ケストラーの「機械の中の幽霊」という概念は、デカルト流の心身二元論−−人間は、自由意志をもつ心と、機械的動作を行う身体とが独立して存在し、それぞれが相互作用するものという人間観−−を批判したものだ。我々には実体をもった心などないし、心身を明確に二分することもできない。人間とは身体(機械)の中に住む幽霊(心)なのだ、というのが「機械の中の幽霊」という概念だ。
30年にわたって「新作」が作り続けられている作品
オリジンであるコミック(とアニメ映画)は、MachineをShellと読み替えた。この発想こそが発明だった。人間が機械の中に存在するゴーストだというならば、殻(シェル)の中に宿るゴーストとは何なのか? 士郎正宗(と押井守)がタイトルに込めた問いかけは、『攻殻機動隊』という作品を超えて、深いパースペクティブを与えてくれる。
心が実体ではなくゴーストのようなものならば、人間的動作をする機械と人間との差異は、どこにあるのか。それは容易には見分けがつかないはずである。さらにネットワークが世界を覆い、人間の身体性が希薄になった時代において、ゴーストが宿ったシェルと人間の差異は何なのか。身体がなく、シェル(義体やネットワークそのもの)の中のゴースト(心)が人間ではない、と言い切ることはできないのではないか。
このような深い問いかけを内包する作品であるがゆえに、『攻殻機動隊』は、コミックが発表された1989年以来、およそ30年にわたって、新作が作られ続けているのだろう。
2017年に公開されたハリウッド版の実写映画『GHOST IN THE SHELL』は、その最新の形態(shell)である。
今回は、ゴーストとシェルの関係を、原作と表現の関係に読み替えて論じてみたい。ゴーストとは、作品が持っているエッセンスやスピリット、テーマなどの本質に関わる部分を意味し、シェルとは、それらを表現するメディアや手法のことを意味する。