『攻殻機動隊』を表現メディアという「殻」から再考する
オリジンであるコミックの『攻殻機動隊』には、1980年代後半の日本のコミックならではのエッセンスがちりばめられていた。作者の士郎正宗氏は、東京のメジャー出版社ではなく、大阪の出版社からの単行本書き下ろしという、当時の日本でも珍しい経緯でデビューしている。しかし、商業デビュー前から、いわばマイナー・ポエットの天才作家として高い評価を受けていた。メジャー誌に舞台を移して発表された『攻殻機動隊』も、ネットワークなどの情報工学、銃機器などのガジェット、哲学や心理学などに精通した氏の真骨頂とも言える描写や演出に満ちていた。当時の日本は、週刊連載がコミックの主流で、リーダビリティと次週へのクリフハンガーが何よりもメジャーコミックに求められていたが、氏の作品には、膨大なディテールが描き込まれていて、一度読んだだけでは消化しきれないほどの情報が詰め込まれていた。セリフ回しや演出も、凝ったものが多かった。しかし、だからと言って、一見さんお断りのような高踏的な作品ではなく、全体はハードボイルド・タッチだがギャグも多く、血の通ったキャラクターが躍動していて、読者への間口も広い。柔らかく繊細な少女が、いかにも無骨で硬質なメカニック(シェル)に包まれているという斬新な表現(いわばA girl in the Shell)も氏の発明だった。
コミックの『攻殻機動隊』の成功は、雑誌の掲載を経て、何度でも読み返すことが可能な単行本というシェルに作品のゴーストをパッケージしたことが大きかった。斬新で未来的な“ゴースト”は、新しいメディア(シェル)に宿るのだ。今回の映画では、実写という新しいシェルにどんなゴーストが宿ったのか、それについては後述する。
そして、1980年代の後半の日本で発表されたという環境も作品にプラスしたはずだ。ネットワークが世界中を覆い尽くしているが、現実世界ではインターネットが商用化されていない時代である。情報工学をはじめとするテクノロジーに希望があった時代に描かれた作品ゆえのポジティブさが、見て取れる。当然、単純なテクノロジー礼賛ではなく、マシーンではなく、シェルの時代における人間観を問うているのだが、それは、後年(1995年)押井守監督によって劇場アニメ化された『GHOST IN THE SHELL』よりも、相対的に肯定的だ。
押井守版『GHOST IN THE SHELL』は「ビデオ」でヒットした
言い方を変えれば、押井守版はテクノロジーに対して、より批評的なのだ。1995年は、日本においてはインターネット元年とも呼ばれ、インターネットが商用化され始めた年だったことが、影響しているはずである。
ネットワークが夢物語ではなく、相応のリアリティをもって受け止められ始めた時代。しかし、ネットはまだまだ貧弱で、世界を覆い尽くしていなかった時代。そこで語られるのは、ネットワークが可能にする夢と悪夢だった。1993年にアメリカでは「WIRED」が創刊され、60年代のグローバル・ビレッジやホール・アース・カタログのヒッピー文化の伝統がネットに接続する。インターネットにビッグ・ブラザーの悪夢を見るのか、地球規模でのコミュニケーションを背景とした個人が確立できるのか。個人と全体という古くて新しい問題が浮上してきた時代だった。
そこに出現した押井守版『GHOST IN THE SHELL』は、ビルボードの週間ビデオ売上ナンバーワンという快挙を成し遂げる。そこで描かれた哲学的で現代的なテーマ、映画的な演出やアクションを、アニメーションという表現で実現したことに、アメリカの観客は度肝を抜かれたに違いない。押井監督が囁いたゴーストが、多くの観客に行き渡ったのは、ビデオという、ブロックバスター的ではないメディア(シェル)によるところが大きい。
あの当時、このようにエッジが効いた思索的なアクション映画がハリウッドのマーケットで公開されても、カルトな人気は獲得できただろうが、全米ナンバーワンという栄光は得られなかったはずだ。士郎正宗のコミックと同様に、押井守のアニメ版は何度も繰り返して、その含意を咀嚼するタイプの作品だからだ。そのためにも、個人が所有できて何度でも繰り返し鑑賞できるビデオというパッケージ(シェル)は最適だった。単行本やビデオで繰り返し読み、見ることでゴーストが宿るのだ。『ブレードランナー』が映画公開時には興行的に失敗したものの、のちにビデオ化されると再評価され、その人気を不動のものにしたことを思い出させる。『ブレードランナー』のゴーストも、ビデオパッケージのマーケットというシェルに宿ったのだ。
士郎正宗、押井守という日本のクリエイターによって囁かれたゴーストは、それぞれふさわしいシェルに憑依して拡散し、世界中に宿った。
では、2017年の『GHOST IN THE SHELL』はどうだろうか?