「批判を作品に込めても、アートは社会問題を解決しない」という批判
けれども、この件に関しては、社会学を専門とする知人に言われた言葉が印象に残っている。
「現代アートの人は難しい言葉を使って、現代社会への批判や皮肉を作品に込めているのだろうけど、それは単にカッコつけているだけで、現実にはどんな社会的問題も解決しませんよね」
実際には社会問題に介入し、その解決に有効な成果をあげているアーティストもいる。2018年に現代アートで最も有名なターナー賞にノミネートされたフォレンジックアーキテクチュアは、事件当時の状況を周辺情報から再現し、実際の事件解決に貢献している。
例えば、《引き裂かれた一秒の間》(2017年)では、イスラエル警察とパレスチナの遊牧民ベドウィンの間でおきた死傷事件に際して、フォレンジックアーキテクチュアは携帯電話に残された現場映像や目撃者の証言、報道記録、さらには当日の風向きなどを詳細に調査し、現場状況を再現した。当初、正当防衛を主張していたイスラエル警察の主張を覆して、警察から先に発砲があったことを実証し、ネット公開後は防衛相が謝罪するに至っている。
現代アートのなかでも、フォレンジックアーキテクチュアは際立って社会問題解決型に寄ったタイプではあるが、それと似た方向性をもったアーティストは様々に現れ始めている。
「無用の長物」に過ぎない、と思われている
だが、ここでは知人の発言が現代アートの実情に即して、正しいか否かは問題ではない。現に現代アートはそのようなものとしてイメージされ、理解されているということが重要である。
一方でアート界に向けた内輪受け的な作品があり、他方で現実問題を扱っても、何の問題も解決しない作品がある。このどちらか、あるいは双方の重なるところにアートが、嫌われる原因が隠れている。すなわち、現代アートは社会の外側でつくられる「無用の長物」に過ぎないとイメージされている、ということである。
これはアート界に限らない傾向だ。1995年、開催を翌年に控えた世界都市博覧会はバブル崩壊後になお東京臨海部に無用の長物の象徴である新しい建築物を建設することへの住民の反発をのむ形で、青島幸男東京都知事の判断によって中止となった。建築家の隈研吾はこれが日本人の「建築嫌い」の始まりであったと述べている。