そして、2015年にはザハ・ハディドの国立競技場案が白紙撤回をむかえる。建設予算が膨れ上がる中、誰もが認める大きな建築はアンビルドとなり、その後釜には「負ける建築」をコンセプトに活動してきた隈が選出されることになる。これも、建築が実際に無用の長物であるかどうかは別として、そうしたイメージに都民や国民が敏感に反応し、それが嫌悪感へと変わっていく、建築嫌いを反映させた結果といえるだろう。
とすると、なぜ無用の長物に公的な援助をする必要があるのか? くわえて、現代アートの場合には、表現の自由を最大限認めなければならないのか? という疑問が湧いてくるのは自然なことだろう。
「アート嫌い」の源泉は、「支援される意義がある」という「特権意識」?
その理由があるとするならば、それはアートに関わる人々が他の社会的活動に対して、何かしらの特権意識を持っていると考えているからと邪推できてしまう。我々は特別な活動をしているからこそ、社会の側からすれば、無用の長物に見えても、支援される意義があるのだ、と。この妙な意識を客観的に示すことは難しいが、この特権性への反感こそ、「アート嫌い」を生み出す源泉にあると考えられる。
ひとつの処方箋はシンプルだ。
現代アートは表現活動や制作の労働環境からしても、他の社会的活動から切り離された特別なものではないことを再確認する。
例えば、あるアートスペースとその隣で営業する飲食店は組織を運営し、商売をするうえでの似た問題を共有し、ときに協同することができるはずだ。また最近では、現代アーティストからなる合同会社内でのハラスメントが問題となっているが、これも雇用に際しては契約書を発行すること、ハラスメント対策の研修を開催するなど他の会社組織で取られている対応がなかったことが、その原因の一つに挙げられるだろう。
アート活動も社会的活動の一部なのである。こうした認識が必要である。そうでなければ、アートは社会の外側から、社会と無関係に自家撞着に陥るか、あるいは社会を批判する立場にまわることになる。そのときには、その地位を確保するために、何らかの手段によって自らの特権性を誇示せざるをえなくなってしまう。
繰り返せば、現代アートは好まれている。けれど、嫌われている。おそらくは、ほかの社会的活動にくらべて、とりわけ好まれているわけでも、嫌われているわけでもないだろう。
だから、まずは現代アートは他の活動と同じ基盤のうえに成立する社会的活動である、というふつうの認識から好きも嫌いも考えはじめてみる必要があると思う。