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「アート」と認められれば、高値で取引される不可解さ

 このような記述を読んでどうだろうか。ほとんどの人はどうでもよいと思うのではないだろうか。たしかにアート関係者にとっては、古典古代から近代まで続く、強固なアートの歴史や制度なるものを否定し、批判するデュシャンの作品には意義があるかもしれない。

 しかし、そうでない人々にとっては、デュシャンはどうでもよいものを批判しているどうでもよい作品を制作しているという、二重にどうでもよい作家として認知されてしまうだろう。現代アートの出発点におかれる作品の解説に躓くことで、その後の現代アート全体の展開がどうでもよいものに思われてしまうのだ。要するに現代アートは高度に内輪受けを狙っている作品群であると。これはデュシャンの責任ではない。彼を伝える書き手の側の問題である。

 デュシャンは既製品をそのまま転用した「レディ・メイド」というコンセプトのもと、作品を制作した。現に《泉》も当時販売されていた男性用小便器を使ったものだ。こうしたモノそれ自体は安価で容易に入手可能で、その加工にも特別な技術を必要としない作品でも、それが現代アートと認められれば、アートマーケットにおいて高値で取引される。この不可解さもアート嫌いのひとつの理由になるだろう。

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©getty

 とはいえ、最近ではそうしたコンセプト重視にとどまらない作品も多く制作されている。バンクシーが新型コロナウィルス対策に尽力する医療従事者を描いた作品やBLMをエンパワメントするために発表した作品を思い浮かべてもらえれば、いいかもしれない。

 バンクシーのように突発的に社会問題に反応してグラフィティを残すものもあれば、長期間にわたって現地取材を重ね、それをドキュメンタリー風にまとめるものまで、その手法は千差万別だが、現実の様々な社会問題、とりわけ資本主義下の経済格差、移民、そして環境問題などを扱った作品群がある。2010年代の現代アートのメインテーマはこれらであったといって差しつかえない。

 近いところで言えば、現在、東京都現代美術館では「エコロジー」をテーマに海外アーティストのオラファー・エリアソンの大規模な個展が開催されている。こうした作品群はアートを支える制度やその流通経路を自己批判しつつも、現実的な問題との接点をもっている。そのために内輪受けの批判は免れられるだろう。