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追悼・渡哲也 「石原」の看板を背負った男の運命

追悼・渡哲也 「石原」の看板を背負った男の運命

「裕次郎が太陽なら彼は月」

2020/08/14

source : 週刊文春 2017年8月17日・24日号

genre : エンタメ, 社会, 芸能

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青春スターからアウトローへ

「『青春の海』(67)で渡さんが演じた底抜けな明るさは、裕さん譲りだった」

 渡は熱い期待を受け、ポスト裕次郎への道を駆け上がっていくかに見えた。だが一転、『無頼』シリーズ(68~69)では耐えた後に憤怒を爆発させる主人公を演じることになる。

「突然、怒りを抱えた渡さんへ変わった。鈴木清順さんの『東京流れ者』(66)の〈不死鳥の哲〉で見せた虚無感も強烈な印象だった。渡さんは、石原さんという高度経済成長下のスターとは違う、時代の翳りを持っていたんだ」(同前)

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 次第に渡は全共闘世代に共鳴される役者として高い評価を得てゆく。この転換の背景には映画界の斜陽化も関係した。不振の日活は、東映ヤクザ映画を意識した作品を企画した。結果、渡は暴力の中で生き急ぐアウトローや刑事のイメージを定着させていくのだ。

「社員の皆さんのお茶代に」180万円を差し出した渡

 68年、石原プロを率いていた裕次郎は三船敏郎と組んで完成させた『黒部の太陽』をヒットさせる。しかし『栄光への5000キロ』(69)などへ巨費を投じた結果、膨大な借金を抱えていく。71年、日活を去った渡は、裕次郎のもとへ駆けつけた。まき子夫人は振り返る。

「石原プロは倒産の危機でした。潰れる会社になぜ入る、そう周囲からは猛反対されていたし、裕さんも反対だった。なのに渡さんは『社員の皆さんのお茶代に』って180万円の大金を差し出した。裕さんはそのお金を受け取らなかったけれど、意気に感じて入社を許したんです」

渡哲也さん

 こうして71年から石原プロに加わった渡は松竹、東宝作品に次々と主演。裕次郎も『太陽にほえろ!』(72~86)を成功させ、事務所は息を吹き返していく。だが、今度は渡の前に次々と病魔が立ちはだかった。

 渡は72年7月に葉間肋膜炎で休業。74年2月には胸膜癒着症に罹りNHK大河ドラマ・倉本聰脚本『勝海舟』を途中で降板。復帰した75年2月、深作欣二監督と組んだ代表作『仁義の墓場』に出演するも、撮影後に肺感染症で入院。誰もが渡の不運を嘆いた。石原プロ再建の為、身を粉にした結果だった。