俳優・渡哲也さんが8月10日、肺炎のため死去した。78歳だった。石原裕次郎さんにあこがれて映画界入りし、日活で活躍。その後、石原プロモーションに入り、裕次郎さんが亡くなった後は同プロの社長に就任。その後、相談取締役を務めていた。

 追悼の意を込め、「週刊文春」2017年8月10日・17日号に掲載した裕次郎さんと渡さんの関係を辿った記事を、特別に全文公開する。(※記事中の年齢、日付、肩書等は掲載時のまま)

渡哲也さん ©時事通信社

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 2人が出会った1964年。石原裕次郎は代表作『赤いハンカチ』を大ヒットさせ、国民的スターとして君臨していた。当時、渡哲也は22歳。青山学院大在学中は空手道部に属し、役者になる気は全くなく、就職活動を続けていた。渡は裕次郎のファンで、一目見られたらという軽い気持ちで撮影所へ見学に行く。その折に日活からスカウトされ進路が決まってしまうのだ。

 裕次郎に初めて会ったのがその年の4月。新人として撮影所の挨拶回りをした時、他の先輩は渡へ座ったまま挨拶を返す中、撮影所の食堂にいた裕次郎だけが立ち上がって渡を迎え、丁寧な物腰で「頑張って下さい」と励ました。この初対面は渡に強い印象を残し、その後の運命を大きく変えることになる。

 日活で活躍した映画監督・斎藤武市はかつて裕次郎と渡の関係を評し、こう筆者に語ったことがある。

「石原さんと渡さんは誕生日も、兵庫県生まれで厳しい父親に育てられたのも、才能ある兄弟がいるのも同じ。映画俳優に自ら望んでなったのではないところまで同じなんだよ」

 憧れのスターに魅入られ共に働き、没後は寡黙に「石原」の金看板を背負った男。その役者人生を始まりから追っていきたい。

「渡君を主演にしたい」裕次郎は制作陣に言った

 仕事から私生活まで後輩の世話を焼く裕次郎は、日活に入った渡を厚く迎えた。自宅へ招き、食事をさせ、撮影所へ送り出す。呼び名も「渡君」から「哲」に変わり、やがて渡は裕次郎の代表作のリメイク版『嵐を呼ぶ男』(66)と『陽のあたる坂道』(67)で主役を務める。裕次郎や吉永小百合の主演作を撮った監督・西河克己は生前、こう語った。

「渡君を主演にしたいと石原さん自身が制作陣に述べた。スターとして華があるのと同時に、渡君には赤木圭一郎の面影があったから。5歳下の赤木君は石原さんが怪我で降板した『激流に生きる男』(62)で代役になり、撮影所での事故で亡くなった。石原さんには心の傷がずっとあったと思う。そこへ現れたのが赤木君より2歳若い渡君だった」

 赤木は日活アクションスターとして裕次郎と並ぶ人気を得ていた。彼の主演作『拳銃無頼帖』シリーズ(60)等を観ると確かに、屈託のなさと苛立ちを抱えた姿が若き渡に重なる。加えて日活の撮影監督である故・姫田真佐久の証言も引きたい。