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小池正晃の引退試合のあの涙が、ベイスターズをもっと強くしてくれる

文春野球コラム ペナントレース2020

2020/09/03

 2006年8月5日、僕がリーダーを務めるバンド「小野瀬雅生ショウ」は成田国際空港からモンゴル国へと飛び発った。2006年はモンゴル帝国建国800年と云うことで、海外からのアーティストを毎週呼んで、国会議事堂前の広場に設営された巨大な屋外ステージでコンサートを開催していた。御縁があって僕達が日本代表の一組に選ばれて、その大役を務めることと相成った。ちなみに僕達の出番の前週はスコーピオンズがそのステージに立っていたとのこと。

 チンギスハーン国際空港に到着、僕には何とSPが付いた。黒いスーツを着た屈強なSPが2名。僕は国賓扱いだったのだ。空港では記者会見も行われたが、初めての体験だった。そんなことは聞いていなかったのでビックリの連続。空港からウランバートル市内へは黒塗りのデカイ車で移動。ホテルに着くとSPの先導で部屋へ。SP2名が部屋の中をくまなくチェック。その片方がテレビを付けた。そこには突然日本のプロ野球の試合の光景が映った。

 東京ドームでの読売ジャイアンツvs横浜ベイスターズ第13回戦。打席には2番小池正晃選手。あ、小池くんだと思った瞬間に打った。ホームラン。8回表、同点に追い付く3号ソロホームラン。SP2名は部屋のチェックを終えて出て行った。ダイヤモンドを一周する小池選手を見ながら呆然としている僕をそこに残して(テレビに映ったのはNHK-BS。モンゴルではNHK-BSがバッチリ受信出来るのです)。

 その翌々日に行われたコンサートで想定外のてんやわんやに見舞われたことや(コンサート自体は無事に終了、観客は3万人ほど)、同点に追い付いたベイスターズがその後二岡選手のホームラン等で突き放されて負けたこと、その辺りは詳しく書かないけれど、とにかく僕は横浜ベイスターズ、そして小池選手に御縁があるのだなとしみじみと思った瞬間だった。コンサートの内容よりもこの一瞬が心に強く残っている。

小池正晃 ©文藝春秋

小池正晃選手との不思議な御縁

 2004年にクレイジーケンバンドfeat.小野瀬雅生として横浜ベイスターズの公式応援歌「BE A HERO」を書いて、歌わせて戴いた。その御縁もあって選手の皆さんとも少しだけ知り合うことが出来た。石井琢朗選手にはレコーディングに参加してもらったこともあるし、内川聖一選手にはライブにも来て戴いた。球団職員をされている畠山準さんとは今でも懇意にさせてもらっている。駒田さん、三浦大輔二軍監督、鈴木尚典さん、大矢元監督と枚挙に暇がない。でも小池くん(敢えてそう呼ばせてもらう)との繋がりはちょっと特別。

 僕は小池くんの御実家である横浜洪福寺松原商店街にある丸秀園と云うお茶屋さんの近くに住んでいたことがある。その家の近くを歩いている時に小池くんのお姉さんに「クレイジーケンバンドの小野瀬さんですよね! 小池です、ベイスターズの小池!」と声をかけてもらって以来、小池くんとの不思議な御縁が深まった。

 小池くんは御存知1998年甲子園春夏連覇の横浜高校の主要メンバーの一人。松坂大輔旋風が吹き荒れる中、僕は力強い打撃をする小池と云う選手に注目していた。こう云う選手が横浜ベイスターズに入ったら良いなと思っていたところ、その年のドラフト6位指名。僕は秘かにガッツポーズをしたのであった。

 小池くんは2005年には牛島新体制のもと、2番中堅として定着、セ・リーグトップの37犠打と20本塁打の成績を残した。その後色々とあって2008年に中日にトレード移籍。落合監督のもとで大きな役割を果たすこととなった。